2月の雨

 一日雨が降り肌寒い。私の中では「2月の雨ニヤリーイコール最悪!」である。雪の方がいいな・・・とはいっても豪雪で苦しんでいる地方もある。勝手なことは言えない。

 厳しい季節であり体調を崩す人、亡くなる方も多い。今日も在宅で診ていた方が一人息を引き取った。90歳も大きく超えられており大往生である。ご家族の方は自宅で看とると決めておられ、呼吸が急に止まった時も冷静に電話をかけてこられた。亡くなられた方のそばに行っても医者のできることはわずかである。死亡確認をし、お悔やみを言い、少し事務的なことをお話しし、ほとんどはご家族のかたのお気持ちを聞くことに専念する。そして静かに御いとまし、車で帰路に就く。

 もう3ケタをこす数くらい人の亡くなる場面に立会ってきたが、その後はいつも同じように厳粛に冷静な気持ちになる。来世とか、死後の世界とか、霊とか、そんなことは僕には全く信じられない。生物学的な死亡は人も動物も同じ、動かなくなり冷たくなり、すべては終わったのだと思う。誰かの心の中には生き続ける、もちろん。でも個体として生きるということは別である。

 ジョン・レノンがGodのなかで「神は人々が苦悩の程度を量るコンセプトなのだ」と歌ったように、僕も霊とは、人がその方や何かに対する愛着や後悔を量るコンセプトなのだと思う。在るのではなくその人が心の(脳の)眼で見てしまう。客観でなく主観なのだ。そして供養というのは残された人がその人のことを思いながら現在を楽しく生きていくことなんじゃないだろうか。それを死者に捧げるのである。

 人は2度死ぬ。1度は生物学的に、2度目は心の中から消えた時。僕が死んだらどうなのかなぁと思う。2度死ねるんでしょうか。

 僕は霊は信じないが、僕が死んだら絶対化けて出てきてやると思う。この面白い世の中からバイバイなんてできるものか。楽しみにしといてね(支離滅裂だなぁ)。

 

今日の空

  

2月の雨」への2件のフィードバック

  1. ムーラン・ルージュ

    院長先生、こんばんは^^

    先日、TVで映画「おくりびと」を観ましたが
    死者の弔い方についての日本独特の習慣に
    厳粛かつ死者への敬意みたいなものを
    感じつつ観てました。
    葬儀や死者に対して、ある意味、公に語るのって
    タブーとされてきた中で
    伊丹十三監督の「お葬式」を初めて観た時に
    人間の生とは何で、死とは何か‥‥と
    考えさせられましたね。
    死後の世界や霊の存在‥‥って
    遙かな太古より 問いかけられて来た問題ですが
    私も、全く信じていない1人です。
    4年前に最愛の人に先立たれ
    確かに、私の心の中には ずっと存在しては
    いますが、来世で逢える‥‥などとは
    思ってはいませんね。

    以前、ナンシー・ウッド著の
    『今日は死ぬのにもってこいの日』
    というアメリカンインディアンの死生観や
    自然信仰から生まれた散文を読んだのですが
    科学文明が発達した中で生きる私達にとって
    彼らの言葉はとても重みが感じられました。

    『こんな風に思いながら死ねたら幸せだなぁ‥‥』って
    思います。

    (文中から抜粋)

    今日は死ぬのにもってこいの日だ

    生きているものすべてが 私と呼吸を合わせている

    すべての声が 私の中で合唱している

    すべての美が 私の中で休もうとしてやってきた

    あらゆる悪い考えは 私から立ち去って行った

    今日は死ぬのにもってこいの日だ

    私の土地は 私を静かに取り巻いている

    私の畑は もう耕されることはない

    私の家は 笑い声に満ちている

    子供達は うちに帰ってきた

    そう、今日は 死ぬのにもってこいの日だ

    返信
  2. kiyo

    ムーラン・ルージュさま

    素晴らしいコメントを有難うございます。
    スティーブ。ジョブス氏ではないですが、今日が最後の日かも
    しれないとシリアスに考えながら生きることができたら、かなり
    人生は違ったものになるだろうと思います。

    忘れないように、少しでも意識してやっていきたいです。
    そうすれば今日は死ぬのにもってこいの日と思いながら
    死ねるかもしれないですね。

    返信

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