月別アーカイブ: 2012年4月

下り坂では…

 本をネットで購入する。「下り坂では後ろ向きに」。首都大学東京の教授でドイツ文学者、丘沢静也氏の本。書評を読んで(実はあまりちゃんと読まなかった)高齢者の運動についてのメソッドが書かれてあると思っていたのである。到着した本をパラパラして、これはかなり哲学的な内容であると気がついたのだが、なかなか興味深い文章が並んでいるので、結局1時間ほどで読了した。

 30代の後半から全く運動に縁のなかった丘沢氏はジョギングと水泳を始め、今では立派な「運動習慣病」患者である。今66歳であられるが、年代にふさわしく無理をしないスローなエクセサイズを実践されており、その考え方は実際的になかなか有効である。筋トレはやはり高齢者に必要であることや、何回やるか決めるより、何分と時間を規定してその範囲でゆっくりやればよいなど、うなずけるアドバイス多し。

 しかしこの本で一番印象的なのは、そのような運動姿勢を裏付ける賢人たちの言葉の引用です。タイトルもヴィトゲンシュタインが述べている哲学する姿勢、いつも同じでなく違ったやり方を用いることの、運動における彼自身の(人生に対する姿勢もかねて)応用を表わしたもの。

 

「腰を下ろしていることは極力少なくせよ。戸外で自由に運動しながら生まれたのではないような思想は信用するな。筋肉もお祭りに参加していないような思想は信用するな。すべての偏見は内臓に由来する」(ニーチェ)

身体は大きな理性だ。一つの意味を持った多様体だ。(中略)「私は」と君は言ってその言葉を自慢に思う。「私は」より大きなものを君は信じようとしないがー「私は」より大きなものが君の身体であり、その大きな理性なのだ。大きな理性は、「私は」とは言わず、「私は」を実行する。(ニーチェ)

神はお急ぎでない (ガウディ)

人間の身体は、人間の魂の最上の姿である (ヴィトゲンシュタイン)

自分の中に「自分」を求めようとすると、迷路に迷い込むだけだ。自分の中に「自分」を探すのではなく、自分の外に「自分」を求めなさい。自分の外に「自分」を探しなさい。外からの課題に身をゆだねることによって、あなたは自分に出会うだろう。(ルドルフ・シュタイナー)

 

 どう?いいでしょう。運動は万薬に勝る。「気晴らし」(もともとのスポーツの語源)としての、しんどくないスローな運動を、地道に続けましょう。言うは易く・・・なんて言ってないでね。

久々の岩波書店

それは手だ!

昨日は校医をしているS中学の検診に行った。3年生、244名である。聴診器を入れている耳が痛くなり、続けて診察をするので滅多に凝らない肩が痛くなってくる。肉体労働である。

 

S中学は珍しくラグビー部のあるところで、神戸製鋼とかの結構有名どころのラグビー選手を多く輩出している。名門校である。

3年生のラグビー部員となるとおっさんだ。僕より体も大きくヒゲなんかもうっすら生えたりなんかしてさ。 女の子なんかも大人っぽくなってるし、検診って結構楽しいんじゃない?なんて言う人もいるがとてもそれどころではない。 午後診の時間は迫ってくるし、ガヤガヤやたらうるさい生徒諸君を並ばせるのに先生は声を張り上げるし、緊急の携帯は鳴るし、なんか気が遠くなってきた。

薄れ行く意識の中でぐるぐる変わる生徒諸君を診察しているうちに気がついたことがある。

 

僕よりおっさんに見えるボクも、不良予備軍の悪ぶってる彼も、おばちゃん?みたいな彼女も、一見年齢不詳かもしれないがみんな手が幼いのである。 手が子供。 つやが良く、血色がよく、プックリしている。細胞が若い。

 

手は年齢を表すというのはよく言われる。しわ、シミが加齢と主に増え、張りがなくなる。その変化は顔以上、特に男性は手に気を使わない分だけ著明に現れる。 昔知り合ったある男性は(奥さんがアメリカ人だった)、ふと気がつくと手が本当にきれいだった。そのことを指摘すると、彼はその当時男性は全く対象外だったエステに行っていると言った。「いや、嫁さんがね、営業職だったら見かけを絶対ちゃんとしなくちゃだめだって言うんですよ。で、つてをたどってね、月に1回、顔とか手とかやってもらってるんです。いやー、嬉しいなー、わかってもらえて」。 仕事で彼と知り合ったのだが、確かに彼はダントツで優秀であった。今頃どうしているかな。

 

手は実は病気もよく表す。貧血は爪をだめにするし、案外変形も多い。 診察の時、手を見ていたら患者さんが「先生、何見てんですか?」と言うので「手相」と言ったら「そうなんだ」と言われた。不徳の致すところである。

 

手は病気以上に生活環境が現れる。 余裕がないと手までまわらないもんね。女性は先刻ご存知だろうが。

 

手は脳の延長で、神経の先端が形になっていると思ってもいい。 ボケないためには「ばくちでもいいから手を使え!」という教えもあったな。 これからもっと手に注意をはらわなくっちゃ、と思っているうちに最後のボクが終わった。

つぼ、ってのもありましたね。

 

修行としての音楽鑑賞

 昔からなぜか前衛ジャズが好きであった。

 「ぴーーーーひょろろろぐぁんん、がっしゃんーーーー!!!!」というのが何故か不快に感じず、何がいいか人に説明も出来ないのだが、「ほー・・・」と思いながら眠りもせず耳に集中していた。20歳の頃、セシル・テイラーなんかも聴きに行ったなぁ。

 甘ったるいのは嫌いである。いわゆるカクテルジャズというか、ホテルの最上階ラウンジなんかでかかっている思い入れたっぷりの女性ヴォーカルの歌うラブソングなんざぁ全く心に触れて来ないのである。

 快適な音楽が嫌いなわけではない、というか非常に好むのであるが、肌触りとしての好き嫌いが頑としてある。

 ベトベトはだめなようだ。

 女性の好みも男っぽい方が好きである。

 話がずれた。ともかく大音量でアルバート・アイラーやらアーチー・シェップなんかを聴いていると頭がクリアーになってくる(ような気がする)。思うにだなぁ、ホルミーシスという医学上重要な概念があって、それは簡単に言うと「人間が許容できる範囲のストレスは、むしろ人間をスポイルするよりも鍛え、能力を向上させる」ということになるのかな。過度のストレスはだめだがほどほどはむしろ必要である・・・と。

 考えとしてはしっくりしますが、思うに前衛ジャズというのはこの適度なストレスを脳に与えているのではないかな。媚びるような甘い音楽は耳を通り過ぎていくだけだが、強いエモーションを持った破壊的な音は脳を活性化する・・と。破壊的な音の中に急にロマンチックな音が挟み込まれたりすると、これは非常に効く。このテンションの変化、強弱も頭をグァングァンと揺らして活性化させる気がする。

 音楽療法というのがあり、これは主として回想的に音楽を使ったり、リズムの楽しさを覚えていただいたりして高齢者の方のリハビリテーションに用いられるのだが(もっと応用範囲は広いが)、我々の世代はこの程度では効かず、やはり後期コルトレーンみたいなのを聴いて頭を鍛えるべきではないか、なんて思います。昔のポップソングばかり聴いてないでさ。

この前衛ジャズのコンピはかなりいいです。