月別アーカイブ: 2011年6月

真昼の怪談

 いやー、暑い!朝出勤のとき、7時チョイ過ぎでも30℃を超えてます。こんな時はこれ、これ。

 夏だ!ビキニだ!怪談だ!

 

 ランチタイムのいつものお喋りに、女性スタッフから。

 「昔某大学病院に入院したんです。3階に入院していたんですがちょっと用事があって上の階に行こうと、夜11時頃看護師さんの了解を得て一人でエレベーターに乗った。ボタンを押したんですが上にいかないで下の階に行くんです。誰もいないのにゆっくり1階ずつとまって地下3階までいった。そしてまた上がって元の3階で止まった。すると看護師さんが待っていて「どこ行ってたの!」と言うんです。剣幕に驚いていたら、すぐの気がしたのに実は45分もたっていたんです。事情を説明したら看護師さんは黙ってしまった。後でわかったんですが、病院の建て替えの前は地下3階に霊安室があったそうです。各階で止まって誰かが乗り込んで下まで行ったのかなぁ…」

 彼女はちょくちょくそれらしき経験をする人である。霊感のありそうな…。するともう一人の女性が、

 「六甲とか行くとよく出ますよね。車に乗り込んできたりとか」・・・ 「乗り込む!?経験あるの?」 「よくありますよー。夜景なんか見に行くと、とてもあり得ない場所に人影が立っていたりとか。車にも何気なく乗ってきたりとか」

 絶句!である。まだ大物がいた。彼女は日常的によく見るそうで、特に異常とは思わなくなってきた、そんなもんかぁ、という感じだそうである。友人たちには引っ越しの時とかよく頼まれるそうである。「誰かいない?」かみてほしいと言って。

 すると先ほどの彼女が、「結構いますよね。家とかむしろいないほうが少ないんじゃない?」「そう。でも悪さするのとか、そうじゃないのもいるしね」 「悪さって君になんかするわけ?」 「何もしないけど、見ていると頭が痛くなったり息が詰まったりするときがあって、これは悪い。」

 もう人生観が根本から引っくり返るような話である。一緒に話を聞いていた「もうすぐ結婚改めバタフライK君(高校時代にバタフライで県大会まで行ったことが判明したため改名)」も驚愕の表情である。実は僕は最近、工藤美代子氏の「もしもノンフィクション作家がお化けに出会ったら」という本を読んだところで、ふーん、こういう人もいるんだと今までの「ない!ない!」という姿勢が微妙にに変化していたところだったので余計に驚いたのであった。

 こういうことってあるんでしょうかね…。案外何人か集まると大概そういった能力を持った人がいるようで、結構一般的な気もする。僕は「幽霊の正体見たり枯れ尾花」、基本的にありえないと思うのですが、この世界は自分の頭の中で理解しているだけでみんな同じように見えているという保証はない。絶対値ではなく、世界の存在は各々で違う可能性もある。気配を感じる能力差なんてのもあるだろうし。科学的に解明出来たら面白いなぁと思うのでした。でも僕には出ないでね。

 

やっと夏?

 土曜日から急に夏になった。日差しが強く、空あくまでも青く、風景が全体に露出オーバー気味に明るくなり、空気に梅雨の名残、日本の夏の湿気が混じる。  夏だー・・・これを待っていたんだよ。

 誰が何と言おうと夏が好きである。昨年の殺人的な暑さであろうと好ましい、個人的には。いつごろかいな、そう意識しだしたのは。

 アーウィン・ショウ氏の「夏服を着た女たち」という短編を好きになった頃かいな・・・と思う。10代の終わりか。短編集のタイトルでもあるこの話はいいぞー。僕はこういった話を読んで、「おっしゃれー」という自分なりの感覚が出来上がっていったのだ。ヘミングウェイ氏と同時代の作家なんだけど今読んでも古くないと思う、多分(ほとんどの本が絶版だ)。

 村上春樹氏の「夏の最後の芝生」、池上夏樹氏の「マリコ・マリキータ」、片岡義男氏の「波乗りの島」「僕のオートバイ、彼女の島」なんてところも夏を特別な季節に感じさせてくれる役割をになったような気がする。

 そう、夏は特別なのである。片岡義男氏の名言「夏は単なる季節ではない。それは心の状態なのだ」を思い出すまでもなく、心は仕事以外のフレッシュな世界へもどんどん飛び出していくのである、いや、いきたい。強くそう思ってやっとちょうどくらいだよ。ぼやぼやしている時間はないねー。なに?まだ梅雨はあけてない?いいの、個人的にあけるから。

 

 

 

サプリの伝道師

♪♪ こ~べー、ないてどうなるのかぁ~♪♪ と内山田洋とクール・ファイブを呻りながら雨の神戸へ勉強しに行ってきた。
 
 ヘルシーパスの田村社長が神戸の保険医協会で「医療機関におけるサプリメントの扱い方」で講演するので、うちのスタッフも5人参加して土曜日の雨の元町へ。考えてみれば僕が田村社長のサプリメントの話を聞いて目から鱗が落ちたのは5年くらい前だろうか。でもサプリメントを取り巻く状況は一部を除いて(抗加齢医学に携わっている人々以外では)そんなに変わっていないような気がする。相変わらず宣伝だけの中身のないサプリメントが闊歩しているような・・・
 
 田村社長の講演はビタミン、ミネラルがなぜ必要かという話から始まった。この前ブログでも書いた現代の食事にいかに栄養素、ミネラルが欠如しているか、そして見逃されがちな鉄分の不足について、そして今回の話のキモであるいいサプリメントに見分け方、成分表示の読み方について。
 
 相変わらず話がうまいなぁ。温和な性格、口先だけでなく内容をはっきり確信している説得力に加えて、判り易く話そうとする工夫がいつも感じられるので本当にわかりやすい。感心。
 
 彼は基本的にわかってない人には別に当社のサプリメントを使っていただく必要はありませんと全くセールス色がない。また保険適応が難しいが医薬品のビタミンがあるので、まずそれを使えばいいというスタンスである。
 
 世の中には本当に粗悪なサプリメントが多いのだが(それがためにサプリメントの有用性がわかりにくくなっている)、それを淘汰するのはかなり難しい。自由経済社会ではおそらく無理。病気にならないように予防医学がこれからますます大切になってくるしサプリメントの必要性も増してくるのだが。  だからこれからは医者がちゃんと知識をつけて啓蒙するのが大切。僕も今度城東区のケアマネージャーの会でサプリメントの話をさせていただくように話が付いたので、今まで教えていただいた話に自分の経験を加えて、実のある話をしたいと思ってます。
 この人です。

「無銭優雅」

 好きなものがあるとランクをつけたくなる。昔から「無人島に持っていくレコード10枚」とか「10冊」とかのアンケートがあるが、自分でも時々考えてみたものだ。

 好きな作家の部門で最近急上昇中なのが山田詠美氏です。彼女の「僕は勉強ができない」「放課後のキーノート」という、高校生を主人公にした2冊はすごくすごく好きで大切にしていた(若い人が主人公の本は、なぜか大切にしようという気になる)。郷愁なんかでは無論ない。僕の高校時代とは違いすぎる。カッコよすぎる。つまりは主人公が好きなのである。憧れてしまう。そして彼らがどんな大人になるか、未来を含めて大きく展望が開けてる感が気分がいいんだろう。

 で、実はそれ以外はあんまり読んでなかった。山田詠美といえばなんとなく男女間のセクシュアルなどうのこうの、というイメージがうっとおしかったのね。しかし実は彼女の作品はもっと幅広く深いというのをやっと最近知ったのである。

 「無銭優雅」という小説。4年ほど前の書き下ろし。40代男女の恋愛話。帯に「心中する前の日の心持ちで、付き合っていかないか?」と書いてあります。 おおっ。 「恋は中央線でしろ!」ふーん。中央線のイメージは関東じゃないからわかりませんが、言いたい感じは判ります。で、この本、シリアスじゃなく実に軽やかです。実にいい感じ。そして気が付いたのが、帯もそうですが名文句満載、アフォリズムの宝庫であるということ。ぱらっと本を開いてみただけでもだなー・・・

 

 「だって慈雨ちゃんて、よくぼんやり考え事してるでしょう?考え事の似合う人って、恋に合ってるような気がするの。あ、ただし、しっかり考える人じゃなくて、ぼんやり考える人ね」

 ここで断言する。恋を進展させるのは、物理的条件である。・・・(院長より注釈。遠距離は難しく会う機会が多い方がいいってことだ)

 「二人とも年を取り損ねている感じがした。ちょっと、羨ましかった。この年齢で、現実に噛み付かれていないたたずまい保つのって、技がいるものね」・・・(院長注釈。Reality bitesという言葉があります。きびしい現実にやられるってことですね)

 

 などなど。おおっ思う言葉、よくこんなに深く感じられるなというセリフが一杯でござる。彼女はこういったセリフをかなり意識して小説にいれているようだ。行為もそう。主人公の姪に、二人の名前を相合傘で書いてあるのを見つけられるというシーンがあります。相合傘だぜ、おいっ!まだ生きていたのかー。うーん。暴走してます・・・

 で、ほんとに素敵なラブストーリーでした。悩める中年の(じゃなくても)男女にはこの本をお勧めする。Strongly recommended ! ですね。

 

 

 

 

 

 

 

ランチトーク

 昼飯はいかなる状態で皆さんお食べになっているのかな?

 僕はクリニックの上にあるスタッフルームで、鍼灸院のサイコK嬢、治験を手伝ってくれているベビーフェイスY君、もうすぐ妻帯者K君と一緒に食べることが多い。デイサービスで利用者さんに出しているものと同じものを食べる。

 この30分から1時間の食事時間は僕にとって一番の気分転換である。この時間は出来るだけ仕事の話はしない、出来るだけバカ話をするというのがみんなの暗黙の共通認識となっているようで、いろんな人も話に入って、出来のいいバラエティのようでかなり笑える。

 しばらく前はY君の女性認識がいかに甘いか(男には媚態を見せ女性には態度を変えるというかわいこちゃんタイプが見破れないのである。またそうと分かっても好きなんだそうだ。その通り!愚か者である)というのがホットな話題だった。今日の話題は・・・

 「男の人は禿げって嫌がりますけどそんなことないですよ」 「うそー、俺、絶対いやだ」 「なんで?ブルース・ウィルスとかかっこいいじゃない」 「それはブルース・ウィルスがかっこいいので禿げがカッコいいわけではない。外人は似合うんだ」 「日本人でも竹中直人なんかいいなぁ」 「うん、十分許せる」 「なんで?わからん」 

 「男の禿げと女性の太ったってのは、自分が思ってるほど他人が気にしてないという点では双璧だな」 「うそー!」 「そうだよ、男って案外ちょっと太ってても可愛いと思うよな」 「思う、思う。ガリガリより絶対いい」 「うそだ」 「絶対嘘!ありえない!」 「・・・なんでそうなるかなー。わかんねぇ」

 ということで、男の禿、女性の肥満、というかぽっちゃりは、異性はむしろ好ましいと思っていることも多いのだが、「信じれん、自分だと嫌だ」という共通点が明らかとなった。で、僕は男の観点から考察するのだが、女性が禿げに寛大なのは、それが不可抗力のもの、個人の努力ではどうしようもないから寛大なのではないかな。

 対して肥満は個人の努力でどうにもなる。肥満ということは美的観点から許せないというのもあるが、努力してない、怠慢のシンボルだから許せないのではなかろうか? 女性はそういう点、シビアな気がするのですが誤解でしょうか。

 男は大体寛大である。特に外観に関しては。禿げもこれは女性に人気がないという思い込みがあるからイヤなだけで、そうでもないというのが認識されるとコロッと変わる可能性が高いな。

 僕も禿げても気にならなくなってきた。つるつるに剃ってサングラスをかけたい。こわいぞー。大体変に気にしないで堂々としていれば何でもカッコいいのだ。外観より中身よ、それそれ。とすると内面の怠慢が外に出る肥満はやっぱりシビアに対処した方がいいな、とこれまた趣旨替えをする。主体性がないのであった。

二つ合わせちゃえ!

みんなのデューク

 次の患者さんを診ようとして前回の電子カルテを眺めると「17年飼っていた愛犬が死んで落ち込んでいる」と書いてあった。そうだった。Nさんは1ヶ月前それで元気がなかったのである。

 「少し元気になりました?」 「あきませんわー、今でも思い出して」と、もう少し涙ぐんでいる。火葬しお骨を仏壇に飾り、気持ちの上では納得していても他の犬が元気に走っているのを見ると、心がじんわりと重くなってくる。

 「しかたないよなー、17年もいると」 「そうですわ。でもね、私いつか生まれ変わってくると信じてるんです。」 「・・・?」 「いつかよう似た顔で、かわいい男の子が近くに来たら、ああ、あの子や、と判る気がするんです。それを楽しみにしようと思って」

 江國香織氏の作品に「デューク」という有名な話がある。亡くなった犬が少年に生まれ変わり、飼い主の少女に会いにくるという話である。こう書くとふーんって程度の感じだけど、これはねー、泣くよ。すごく素敵である。 短編集の中の話だが、これだけ独立して素敵な挿絵をつけて1冊の本として出版されたくらいである。 犬を飼った人なら誰でも泣く。 Nさんは多分「デューク」のことは知らないと思う。でも犬好きの人なら同じようなことを考えるのだと思った。

 僕の愛犬も11歳だ。中型犬だし後何10年も生きる訳ではない。前ほど走らなくなってきたし。

 亡くなったりしたら絶対いやだなと思っているが、生まれ変わるとしたら少し心が休まる。ある時街で憂い顔の美少女を見つける。横顔が誰かに似ている。思い出せない。向こうから嬉しそうに寄ってくる。何故?知り合いらしいが記憶がない。失礼のないように、思い出そうとして少し一緒に歩く。誰かがアイスクリームを食べているのを見ると急に彼女はやたら反応する。近寄っていこうとする。おいおい、ちょっとみっともない。犬顔の人とすれ違うと寄っていこうとしたり、極端に避けたり。道端の花を見ると匂いを嗅いでいたかと思うと急にかぶりつく。 「えー・・・・、あっ!」

 ということになると人生は楽しい。 そして僕も何かに生まれ変わる。あなたの飼っている猫がゴルフ番組の時だけテレビに興味を示したり、70年代のロックミュージックがラジオから流れた時だけ楽しそうな顔をしたら・・・あやしい。