月別アーカイブ: 2011年5月

副腎疲労慰労会

 第11回日本抗加齢医学会総会に行ってきた。

 雨の京都。今回は総会自体より、ある大きな目的があったのである。

 以前adrenal fatigue(副腎疲労症候群)という概念、そしてそれらしき患者さんを診たことをこのブログでも書いたことがある。この概念の提唱者であるDr.James L. Wilson のシンポジウムが、敬愛している静岡の田中先生帯広の満岡先生の企画で開催され、ウィルソン先生の本を今回翻訳して「医者も知らないアドレナル・ファティーグ」という本を出した、前から仲良くしていただいている川崎のスクエアクリニックの本間夫妻がウィルソン先生とともに演者となったのである。

 シンポジウムは大成功であり、その晩、お疲れさん会が祇園で開かれた。僕は一緒に学会に来ていた当院の鍼灸師で抗加齢医学指導士でもあるサイコK嬢(以前はキュートK嬢だったのだが、サイコスリラーの結構コアなマニアということが判明したため改名)と参加した。

 気心の知れたメンバーばかりであり大変楽しかった。田中先生も重圧から解放され大いにリラックスされておられて、こちらまで楽しくなる。気心の知れたメンバーで学問の世界に何かを打ち立てていくこと、そういうなかなか出来ないことを実際に軽やかにやってのける先生には心より脱帽です。

 ドクター・ウイルソンは本の写真より老けて見える。しかし大変実直そうな方で、本間先生が治療を受けに通ったということもうなずける。これからも関係が続くと思うが、是非今まで以上の御活躍を。

 副腎疲労は病気というよりも、ある状態である。このような方は実際はかなり多い。苦しんでおられる方の少しでも助けとなるように、私も勉強いたしましょうと酔った頭で考えたのであった。

 ウイルソン先生   いただいたサイン入りの本

「感覚」

 土曜の午後から散髪に行った。もう30年通っている。オーナーのY君はなかなかのビジネスマンであり、小さなお店1軒から始め、2回ほど同じエリア内で引っ越しをして、今はよく流行っている2軒の店をもっている。もう別に働かなくてもいいご身分のようだが(僕より7つほど下)、先頭に立ってやっている。

 もう長い付き合いであり、行くとバカ話をしてリラックスするのであるが、その中からいろんなヒントをもらうことも多い。

 

 「あまり、こうぐっと感動するようなことって無くなってきましたね」 「かんどー?」 「ええ、前すごくゴルフに打ち込んでいたんですけど、今はちょっとなー。買い物なんかでもなんか義務的で。楽しんでないですね」 「おお意外だ!どうした? でも子供の時に周りが真っ暗になっても遊びを止められなかったような、そんなメチャクチャ楽しいことって無いよな」 「ねっ」 「慣れかなー。年を取って経験が増えるとほとんどがやったことになり、繰り返しは記憶に残らず心に残らん」

 「そのせいかな。最近ゴルフに行くのでも前もって予定立てないで、その日にああ、いい天気だから行こうかなと思って、ゴルフ場と行く相手と、うまくあったら行くト。以前とはちょっと違う。それだと何となく楽しい」 「なるほど。しかし考えてみると休みの日でもこれするとかあれとか、予定ばっかりだな」 「そうですよ。決まった予定ばかり立てて、それ考えると面白くないですね」

 「できたら気ままにやりたくないですか。今日はいい天気だト。この仕事が終わったらあそこ行って気に入ってるあれ食べて、ちょっと気になる映画なんか見て、遅くなったらちょっといいホテルにでも泊まるかなト。一人ですよ、もちろん」 「いいなぁー、それ」 「ねっ、でもね、些細なことなんですよ、こんなの。いっつも仕事してんだから、やってもいいんじゃないですかねぇ」

 

 その通り。しかし気ままにできない50男の性(さが)である・・・かな? その時目の前の窓からは青空と強めの風にそよぐ若木が映っていた。このまま散髪が終わったら車をオープンにして和歌山かどっかの海に行こうかな。そのまま寿司でも食って・・・などと想像していると急に心が軽くなったのである。重かったというのも気が付いていなかった。

 そして実は僕は本質的にそういう人間であったというのを思い出したのである。忘れていた。ランボーの「感覚」という大好きだった詩が突然よみがえったのである。急に焦点があったのである。 これからどうなるかは知らない。

 

 

夏の青い夕暮れに ぼくは小道をゆこう
麦の穂にちくちく刺され 細草を踏みしだきに
夢みながら 足にそのひんやりとした感触を覚えるだろう
吹く風が無帽の頭を浸すにまかせるだろう

 

話しはしない なにも考えはしない
けれどかぎりない愛が心のうちに湧きあがるだろう
そして遠くへ 遥か遠くへゆこう ボヘミアンさながら 
自然のなかを―― 女と連れ立つときのように心たのしく

(宇佐美斉訳、ちくま書房)

 

 

 

ヘブン

 お休みだからとゴルフに行く。夏空だー、とダフッてもいい気持ちでやっていたのだが(うそ、怒りながら)、午後になって夕立が来そうになった。一転空は掻き曇り、鳥が騒ぎ、パラパラと小雨が。そして雷鳴が響いた。

 歩くのをやめてカートに避難。すぐ止みそうだったのだが肌寒い。また雷鳴が鳴る。

 「落雷で死にたくねえなぁ」 「誰だってそうでしょう。ゴルフ中に死んだって誰も同情しないよ」 「絶対ね。遊んでばっかりでしたとか碌なこと言われない」 「故人は勝負を捨てず全員が避難した中、御一人でゲームを続けこの災難に会われました、とか」 「最悪だ」 「ゴルフ中にカッコいい死に方ってないかなぁ」 「まあないな。カートから池に落ちる、OBのボールを拾いに行って崖から転落、寒いさなかやって心筋梗塞とか、まぁろくでもないって」 「バーディパットで固まって動かない。○○さん!慎重すぎ!と肩をたたくとばたっと倒れる、死んでる!」 「倒れた途端パターがボールにあたってコロコロとホールに入る、最後のバーディや!」 「葬式の時、位牌の上に金色に塗ったボールが飾ってある」

 「遊びで死んで許されるのって、かなり年取ってからでしょ。かなり高齢だと逆にカッコいいよ」 「そうね。知ってる人で一人で釣りの最中に椅子に座ったままうつむいた形で亡くなった人がいてさ。家族が帰ってこないなぁと思って捜しに行って発見したんだけど、みんな立派だ、すごいと感激してたね」 「うーん、そうだなぁ。というとまだ20年近くは遊びで死ねないな・・・ながっ!」 「君の場合はいいんじゃない。何で死んでもみんないいこと言わないから」

 50を過ぎてからバタバタと亡くなったり事故にあったりする人が増えた。最近は身体年齢は昔の10年若いから、まあ昔の厄年というわけだ。以前もブログで書いたけど僕も遊びで死ぬよりも仕事場、クリニックを死に場所としたい(スタッフのみなさんは最後までいい迷惑!)。

 夜診が終わってみんな片づけも終わったのに診察室から出てこない。「院長、遅くまで何してんですか?」と様子を見に来ると机に突っ伏した僕が・・・。「院長!」と肩をゆすりふと目を上げると目の前のPCのスクリーンにはヌードの女性の画像が、じゃなかった、気にしていた患者さんの病態に関する文献が・・・。と、こういきたい。BGMはモンキーズの「スター・コレクター」で。

 

 

水分摂取と脳梗塞

 高齢の患者さんが何よりも恐れているものの一つに脳梗塞がある。その予防としてジャンジャン水分を取りなさいとテレビで言ってたとかで、皆さん夜目を覚ましたら、習慣のように1杯水を飲むと言われるのですが、これは科学的に実証されているのであろうか?昔読んだアメリカの雑誌では否定されてたような気がするのだが、しかし有効なような気もするし…

 

 この疑問に名古屋大学大学院泌尿器科学教授、後藤百万先生が答えている(日本医事新報2011年3月19日号)。

 脱水により血液の粘度が上昇し脳梗塞や心筋梗塞のリスクが増すことは報告されている。しかし!

 脱水の無い正常人で水分多量摂取が血液の粘度を低下させるかどうか検討した研究では影響がなかったと報告されている。別のデータでは、1週間の水分過量摂取後、排尿回数は増加したが有意の粘度の低下はなかった。これは心血管疾患のリスクを有する患者さんでも同様であった。

 この問題に対する論文は結構多く、関連661論文の中適切な22論文のシステマティックレビューでは、脱水は確かにリスクを増加させるが、水分の多量摂取によって脳梗塞の発症率を低下させたという論文は一つもないということだそうである。

 

 早朝には神経内分泌系の働きで血液粘度が若干上昇するといわれる。この予防として頑張って夜水を飲んでも尿として排出され、血液粘度の低下は一過性のごくわずかであってあまり脳梗塞の予防にはなり得ないというのが結論だな。もちろんこれは正常な状態の人であって、暑くて異常に発汗しているとか脱水の時は別である。口渇を覚えているときはちゃんと水分を取った方がいい。

 日々の生活でノドも乾いていないのに無理して水を飲むことはない。むしろ非常に多い悩みに夜間の多尿があって、睡眠不足になっておられる場合さえある。よく訊くと、意識して水分を取っておられる方が多いのである。夕刻以降はあまり飲まないでもOK(水分量は1日のトータルが問題という文献もあった)とお話しすると、夜の排尿回数が減って楽になったという方もおられたのであった。

 ということで、普通に生活している方の場合は意識して水分を取らなくていいということになる。

 ちょっと気になるのは、ご高齢の方は知らない間に脱水傾向になっていることが多い(口渇中枢の働きが弱くあまり喉が乾かない)ので、年齢により結論が異なる気もする。すくなくともちゃんと自立して日常生活を送られている方の場合はあまり水分摂取を意識しなくていい。それより禁煙や体重コントロール、規則正しい運動の方が大事というのが妥当なところかな。

アルコールよりは水の方がいいと思う。

 

たとえ銭湯でも

 本をパラパラしていて、いい言葉を見つけた。

 「詩人になるということは状態であって、職業ではない」・・・ロバート・フロスト

 詩人という、世界を男が女を見るような目で見ることのできる感性そのものがあるのであって、別に職業として選ぶものではない、ということだな。納得できる。

 これを変えてみる。

「医者になるということは状態であって、職業ではない」by桜木じゃなくて(判る人は判るか)着ぐるみ院長 

 うーむ。詩人と違うのは感性だけではやっていけないというところだ。診断、治療という技術の習得が必須なのだが、しかし・・・。 一番の勘所は、エモーションのところなのではないかな。そこのところが危ないといい医者とは言えない。そこ、そこ。

 僕は「裸でいても何かを感じさせる男」というのが目標なのです。服装や肩書の関係ない、風呂場でも凄みを感じさせる人っているでしょう、まれに。怖い人じゃなく、裸でしゃべってもサムシングを感じさせる人。

 男の印象は多くは職業により形作られるところがある。長い時間、それに打ち込んできましたというある種の臭み。医者は数メートル先からでも医者を見分けられるという(特に学会場の近くだと確率は100%である)医者ならだれでも知ってる法則があるのだが、それは真面目で野暮くさいとかそんな感覚であって、内からあふれ出るエモーションではないわね。

 医者という、病に苦しむ人の助けになるというハートを強く持っていれば、職業としてでなく、天性のものとなりえるだろうか。それが他の人にわかるくらいに。

 生まれついての医者というのはいないだろうが、なるべくしてなった、自然に、と感じさせるくらいの。医者状態だと思わせるくらいの。

 風呂場であってもそれとわかる医者に私はなりたい。

ここで勝負!

 

 

読書の初夏

 今日のお昼は夏の風が吹いていた。「仕事なんかしてる場合ちゃうで!」とちゃらけたことをぬかしながら往診に行ったのが嘘のように今は雨が降っている。

 

 連休は本をよく読んだ。その中の1冊、村上龍氏「心はあなたのもとに」。新聞の広告で「村上龍、12年ぶりの(だっけ?)ラブロマンス!」なんて書いてあって、村上龍、気でも狂ったか!なんて思いながらも(しかしラブロマンスなんてあっただろうか?)興味があって買ってしまったのであった。まぁファンだからたいてい読む。

 大作です。554ページ、ぎっちり。ラブロマンスなんぞといいながらも、投資組合を経営する「わたし」と風俗嬢サクラとのお話ということで、あーあ・・・という気もしたのですが、なかなか印象的ないい話でした。どっちかというとストーリーよりディーテルが。でもこれ完全に私小説ちゃうの?

 サクラさんが1型糖尿病だったり、投資話の中心となるのが医療畑だったりと、最近の村上龍氏の興味がうかがえます。よくある男女のぐちゃぐちゃが中心で、氏の奇想天外なストーリー展開はない。

 しかしなんか年取ったなぁ。好きだった無茶な威勢良さはない。ロジカル。と言いながらも退屈せずに一気に読んじゃったのはリアリティのせいか。なんか肌合いが合うんだろうなぁ。何年かしてもう一度読むと印象が違う気がするので本棚には置いとこうと決める。

 

 もう1冊。「アフォリズム」ロバート・ハリス氏。この人は何をしているかよく判らない日本生まれのイギリス人クゥオーター。しかしインテリ・ボヘミアン、ハンサム・アンド・ワイルドというのが僕の印象で、ちょっとこういう人になりたいな、という感じの人です。

 彼は昔からアフォリズム(格言とか警句とかいったもの)が好きで、今まで収集したそれをまとめたもの。さすがにひねりが効いている。気に入ったのを少し…

 「男は男のフリをしている少年であり、女は少女のフリをしている女である」(作者不詳)

 「勝者と敗者の唯一の違いは風格である」(ニック・ザ・グリーク・ダンダロス)

 {すべてを過剰に!人生の風味を味わうには大きく齧らなければだめだ。節度など坊主のためのものだ」(ロバート・ハインライン)

 なかなかイカした言葉が満載です。こいつも本棚に残しとこ。

 

 仕事上読まなくてはならない本もいっぱいです。考えてみれば幸せなことだ。晴耕雨読。こう生きたい。

  龍              ロバート

 

想定外

 午後診の前、チーフのジェットO嬢が院長室に入ってきた。患者さんからクレームがあり、その対処法についての質問であった。

 それ自体は患者さんとスタッフとの若干の行き違いであって、誰が悪いとかそういったものではない(クールビューティI嬢、気にすんなよ)。でもクレームは最少にすべき。僕は様々なケースに関してマニュアルではないが、想定ケースに対して対処法を大まか決めておかない?という話を彼女にしたのである。それの趣旨の確認であった(相変わらず素早い、しかも別の意見をもって)。

 シュミレーションすること。うちの法人では消防署の立会いの下防災訓練を毎年やっている。ガキの時から学校でもよく何とか訓練をした。そういうのは役に立つのか?

 しかしこれは実は取り組み方の問題、気持ちの問題ではないのか?と思う。真剣に想定することは必ず役に立つ。そしてそうすると、そのケースだけでなく必ず応用も効いてくるはずだ。

 

 今回の震災でシュミレートがいかに有用であったかという話がある。新幹線で雑誌「WEDGE」の「小中学生の生存率99.8%は奇跡じゃない」という記事を読んだ。この話はテレビでも見たことある。群馬大学の片田敏孝教授は三陸地方の防災に関わり、いつか地震、津波が来る可能性がある、その時の対応をちゃんとしておきたいと釜石市にかけあい、小中学生を中心に津波防災教育を8年前から行ってきたのである(なんてすごい先生だろう!)。

 あまり乗り気でなかった行政も熱意と重要性に説得され(これが大事だ)、その親を巻き込んでの訓練の結果、釜石市内の小中学生の親で亡くなった人の数は31人と釜石市全体で亡くなった人の割合と比較して圧倒的に少なく、そして小中学生は5人が亡くなったが生存率は圧倒的であった。

 小学1年生は自宅で一人でいたが、自力で走って避難した。中学生は「君たちが主力」と言われていた通り、小学生の手をひき、あるいはベビーカーを押して逃げた。そしてある6年生は2年生の弟と2人であったが、水量を見て自分たちだけでは無理と判断し、教えられたとおり逃げようという弟をなだめて自宅の3階まで上がって生き延びたのである。

 なんて感動的だろう。訓練を怠っていたといわれる驕れる東電となんという違いだろう。

 

 シュミレーションしても想定外は常におこる。もっと最悪のことが起こる。片田教授もそうおっしゃっていたようだ。ハザードマップを信じるな、もっと悪いことが起こるが考えよ、判断しろ!と。生き残れ!と。

 公私ともに起こり得る最悪のことを考える。身の毛もよだつようなケースも考えられるが、しかしほとんどの場合は、僕は「死ぬわけじゃなし」と思ってしまう。「命がある限り何があってもドンマイや!」というある人の言葉を思い出す。そして今回の震災のどうしようもない現実を考えてしまうのである。

 シュミレーションし、想定外の何があっても生き延びてベストを尽くせ、へこたれるな、今のおれの生活なら、と思うのである。

散歩中に。ツユクサかな?