真夜中の迷走、じゃなかった瞑想

tera

瞑想に行きませんかと、トレーナーの武ちゃんが言った。

瞑想?いいね! 望むところである。古今東西の偉人で瞑想の習慣の無かった人はいない。僕も今まで何度か瞑想の習慣をつけようと試みたが、当然予想されるように妄想しか浮かばず止めてしまったという苦い経験が。しかしそろそろ瞑想の似合ういい雰囲気の大人になってきたことだし(だろっ?)、やってみよー。

場所は生駒山にある宝山寺である。武ちゃんは、某パリーグの野球チームがキャンプの打ち上げにここに瞑想に来るのに縁あって同行してから毎月1度、真夜中に来ているそうである。

僕は前日、某薬剤メーカーでのお仕事があって、楽しく終了後も皆さんと楽しくお酒を飲んであまり寝てないのに朝5時起きでトレーニングしたのでフラフラ・・・と思いきややたら元気であった。診察終了後待ち合わせてファンシーなレストランで飯を食って(武ちゃん曰く信じられないくらい素敵な女性がいるそうで、縁起担ぎにお顔を拝見してから瞑想と思ったのであるが会えず)、外気温は12℃程度であったが車をオープンにして山道を寺までひた走る。寒い中、夜道をオープンにした車に乗るガタイのやたらいい若い男と年齢不詳のおっさんコンビはさぞかし不気味であったろう、多分。

11時過ぎ着いた宝山寺はなんとなくざわついていた。いつもは誰もいないそうであるが金曜の夜のせいかお参りに来ている人が10人ばかし。寺も火が灯されていて、もう「ゆく年くる年」の雰囲気である。僕はパワースポットとか超常現象は全く信じない人間であるが、なんとなく空気が違う気がする。

本堂にそっと入るが、もう頭を伏せじっと拝まれている方がいる。我々は隅に寄り、そっと目をつぶり瞑想の姿勢となる。水の流れる音がどこからか聞こえ、人の話し声や風の音も聞こえるがすべてが心地よくミックスしていく。

驚いたことに妄想は浮かばなかったのである。何かが見えていたのだが自分自身のことではなかったようだ。無私。夢のような気持ちになっていたところで在宅患者さんのことで訪問看護師さんからの携帯が鳴る。 残念ながらその後は集中できなかった。

うーーーん、残念。 しかしわざわざここまで来なくても瞑想は出来るかもしれないという気になってきた。これは大きな変化でないかい。まだ何とも言えないが新しい習慣として定着するか。

その夜も睡眠時間は少なく、翌日は恒例の兵庫医大時代の実験グループの会で京都に行きまたまた楽しく遊ぶ。その日は京都泊まり、久々朝8時まで寝る。その後四日市まで「免疫舌下療法」の講習会に車で行き(なぜ大都市でしないのか、なぜ大人数で開かず制限するのか、まったく??)、夕方、濃霧の高速をブッ飛ばして帰ってきた。

にぎやかな週末。満足。今夜も瞑想して寝ることにする。

 

 

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