神戸であった第7回パワーリハビリテーション学術大会が終わりました。一応大会副会長であり(何にもしなかったけど)本当にほっとした。兵庫支部、大阪支部のお手伝いくださったスタッフの皆様、本当にお疲れ様でした。
パワーリハはある意味成熟段階に入り、以前のこんなことも出来るあれにも有効というバブル期は過ぎました。ゆえに学会に発表できるネタが意欲のある施設しか見出せなくなっているので、必然的に演題数としては少なくなってくる。ここからがパワーリハ研究会がどのように発展していくか勝負でしょう。
うちのスタッフが発表してくれた3題は贔屓目じゃなくてこれからの発展、方向性を示唆するいい演題だったと思います。来年に向けてどのような形でパワーリハに関わっていくか、参加してくれたS君、T君、M嬢、O嬢とも何かを感じているようなので大いに期待しちゃおう。
今日は市民公開講座がありましたが、やはり臨済宗東福寺派管長、福島慶道氏のパワーリハの経験談が圧巻でした。
東福寺は禅の総本山で、福島管長は毎年アメリカに渡り、アメリカ市民、学生と対話して禅を広められています。管長のパーキンソン病は日により症状にかなり波があり、時に話すことも難しいことがあるのですが、今日も京都から来られてお疲れのようで、若い雲水さんがフレーズごとに言葉を補われておられました。
発病歴を西暦もきちんと交えて述べられ、パワーリハは自分にとって大変有効で今も続けていることなど話され、講話に移りました。
「アメリカで話をしていると、良問愚問いろいろ質問されます。印象に残っている質問がありました。宗教学部の学生さんが人間にとってなぜ宗教が必要かと尋ねられたのです。
いい質問ですが答えは単純です。それは人間は元来非宗教的なものだからです。非宗教的とは我のことです。我があると方々にご迷惑をお掛けする。我をなくし、皆さんのことを思いやるのが慈悲です。
私は病気をしたことで慈悲が増し人間的に大きくなった気がします。病気になってもそう思うと立ち向かう元気が出てきます。私にとってパワーリハはとてもよく効いた。やった後は爽快になります。」
時々冗談も交えながら15分ほど話されました。会場は管長さんが登場した瞬間から空気が変わった。必ずしも体調が良い様に見えない管長さんが少しづつ話されるのを皆さん息を詰めて聴いておられました。 本当に後光が射していたのである。
「今日はこんなところで」と話を終わられたとき、本当に僕にはこみ上げて来るものがあったのです。よくテレビで女性タレントが「泣きました」なんていっているのを聞くと「そんなわけないだろ」と思っていたのですが、管長さんを見、お話を聞いていると本当に少し涙が・・・僕はどうなったのだろう?
会場にはニューススクランブル(管長さんも取材された)でもお世話になったYディレクターも来られていました。なんと責任感の強い人だろう。皆さん、テレビは読売テレビですよー、いいですね。
Yディレクターと福島管長のご健康を心よりお祈りしました。
今度京都に行ったら東福寺に行ってみよう。
第7回パワーリハビリテーション学術大会は大盛況で幕を閉じられたのでしょうね。私も医療従事者の端くれで、先日のニューススクランブルを見て、この学会には非常に興味があったのですが、恥ずかしい話、「パワーリハ」という言葉を知ったのが本当に最近のことで、参加の締め切りも修了していたため、諦めた次第です。
先生の記事から、学会の様子や、東福寺管長である福島慶道氏の闘病しながらも現役で職務をこなされ、そのような場で講話もされて活躍なさっている素晴らしい姿がイメージできました。医療従事者の端くれである私の中で、これからどんな役割が担えるのだろうかと考えさせられました。先生、ありがとうございました。
『我を捨てる』って難しいことなんだろうなぁ。これから、『我を捨てる』時間を少し持つように努力してみようかな???という気持ちにはなりましたが・・・・
う~~~ん(>_<)先生の書かれてる事があまりにも 深すぎて 私みたいな凡人には難しすぎて[我を捨てる」う~ん今の世の中我を捨てる人より主張する人の方が多いと思うのは 私だけですかね?これを機に私も少し考えてみます。私なりに(^O^)
Azumiさま、コメント有難う御座います。
福島慶道氏はほんとに後光がさしてました。大会はいろいろ疲れることもあったのですが、管長さんの登場ですべて帳消しです。
我を捨てる、難しそうですがそんなことを意識しているだけでもだいぶ違うのでは?何も考えない人よりは。我を捨てると実は楽な気もします。
macmamaさま、コメント有難う御座います。
おっしゃるとおり我を捨ててる人はとても少なく、何はともあれ我を主張する人ばかりという気がします。モンスターペアレントとかね。
権利ばかり主張すると結局得られるのもは少なく、他人のことを思いやっているほうが心の平安をはじめいろいろな意味で豊かになれるのではなかろうか。