在宅医療

4時過ぎに枕元の携帯が鳴った。患者さんの家族からだとすぐ判った。「今呼吸が止まりました」と思いのほか冷静な奥さんの声がした。すぐ行きますと答えて車に乗る。

 

末期のがん患者さん。前日も夜往診し、あと23日も持たないかもしれないとご家族にはお話していた。早く寝とこ、と思いながら寝たのが1時過ぎだったのを思い切り悔やみながら高速を走る。思いのほか車が多い。朝の通勤時と変わらないな。

 

到着すると奥さんが一人で亡くなったご主人の手を握られていた。安らかな顔。死亡確認を済ませ他の親族の方が到着されるまでお話をした。ご主人のお人柄、ご夫婦の経緯、タバコを最後まで止められなかったこと(ホスピスにいたときも吸っていたのだ)。ご長男のご家族が到着し、少し手続きのことなどをお話して僕は帰る。エレベーターまでご家族が来てくださる。

「先生も大変ですね」「いえいえ、そんな・・・」

 

在宅で最期まで看取るのはご家族も医療スタッフも大変である。しかし、そこに地域医療を選んだ医者の本来の姿、純化した本質があると感じるのも確か。携帯を持って眠りにつくとき、ちょっと何かを呪いたくなるときもあるのだが、いざ現場に行くと勝手に心が身体が動くのである。「楽したい」と、「達成感」との間の揺れ動き。僻地医療の「ディア・ドクター」に激しく共感するのもそこだ。

 

映画の台詞にもある「あんな、弾が飛んでくるんや。打ち返しているとな、どんどんどんどん飛んでくる。ちょっと面白なったりする気もするけどな、もうだめや、止めよ思てもな、もう止められへんようになっとんのや。ほんでもう知らんうちに何年もたってもうた。使命感なんて大層なもんちゃう」

 

しみる。こうやって揺れ動いているうちに年をとるのか?いやいや、別の考え方があるはずだ。それを捜すことにする。

 

 

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