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ヘアー・スタイル スピークス!

 あるストリートワイズに富んだ人が言った。「男の力量、勢いは髪に現れる」。

 髪?なぜだ?でも確かに考えてみると落ち目な気分の時は貧乏くさい貧相な感じの気がする。髪にまで気が回らないだろうなぁ。大体男は、ナルシストな若い男の子はいざ知らず、いいおっさんは僕も含めて自分の顔を見る時間ってかなり少ないのではないか。僕は自信をもって1日1分も無いような気がする。これはいかんね。明日から30分はかけるようにするわ。

 で女性は髪に関してかなり神経質だと思うのだが、上の格言はやはりあてはまるかな。しかし少しモディファイしてもいいような。

 いいですか、「女性の知性は髪に現れる」。

 すっごい反発を買いそうな気がするんですが、でもそうじゃないかなぁ。メテャクチャな運転をしてくれるおばさんの髪型は(怒りに満ちて後ろから運転席の頭を見るに)例外なく、ありえない!誰がするんだあんな髪?という人が多い気がする。また、なんも考えてなさそうな女の子の髪型は、これまたそういう髪型である。

 男性の髪型は仕事の種類にもっとも影響されて、個人の知性は比較的自由な女性と比べて反映しにくい感じがする。自分に関して行き届いている女性はやはり髪型も行き届いているんだな。特に横から見たら耳のあたりに顕著に表れているいる気がします。いや、これは全く私の偏見ですが。

 顔のパーツは変えることが出来ないが、髪はかなりのところまで作ることができる。髪により印象は一変する。女性は先刻ご承知だろうが、センス、ビューティーだけじゃなく知性、こいつですよ、現れるのは。

例えばキャスリン・ビグロー氏、「ハート・ロッカー」の監督ですね。

知的なのは(かなりガッツのあるのも)間違いない。

 

ビッグ・ボーイの危機

 「あっ、サボテンの先が黒くなっている!」。今まで5年以上苦楽を共にし、30㎝のチビから今では2m近いビッグ・ボーイに成長したサボテンの先が腐食したように黒くなっている。ついこの間までつやつやした若芽の薄緑色だった部分の先に幅1㎝ほどの黒い異常が。

診察室にいるビッグ・ボーイ

 

 植木業者さんに診ていただいて、半分くらいの高さのところから切ることになった。大変残念。確かにこのままだと天井についてしまうのでどうしようか迷っていたところではあった。その気配を察したか。

 植物、特にサボテンは喋るのだという話が昔あった。意志があるのである。「プラントロン」という機械があり、植物の葉に電極を取り付けて電位を測定して音声信号化するもので、植物の環境に対する反応を反映するらしい。そこで聞き取れるのは植物とそこにいる人間との関係性を表現しているようだということ。

 「プラントロン」があればどう言うかな。うーむ、今まで元気だったからほりっ放しにしていたのが悪かったか。反省。スタッフのみんなはちゃんと愛情込めて世話をしてくれていたのだが。ちゃんといつも僕は見ていたんだよ。愛情表現が乏しかったのが悪かったかなー。

 手術がすんだら毎日ちゃんと声をかけてナゼナゼしてあげよう。愛情表現はオーバーにしよう。サボテンに対してだけじゃなくって。そして「レオン」のように、逃亡することになってもちゃんと連れて行くからね。

 

嘘みたいな本当の話

ついこの間、用事があって車で初めての道を走っていた。お昼前で腹ごしらえをしなくちゃなと思い、ちょっとよさそうな看板があったのでそこに入ることにした。

脇道を入って少し行くと、大きな駐車場があってきれいなお屋敷風の店があった。「10歳以下の子供さんはご遠慮お願いします」と書いてあって、これは良さそうじゃないのと期待が膨らむ。中の作りは高級感がありセンスもあって予想よりかなりいい。なにかスピリットが漂っているのだ。店員さんも合格。鄙にはまれないいセンスだと思い、テーブルの上においてあった紹介パンフを見る。かなり手広くやっておられるのだが何かポリシーが感じられる。提供されるものの素材もそうだが、利益だけでなくもっと大きいものを求めているような。どこがやっているんだろう?

見覚えのある会社名を見つけた。・・・?これは昔仲の良かったガールフレンドの実家じゃないかな?

お伺いしたこともあるのだ。社長さんの名字を見て確信に変わる。うーむ、何たる偶然。「お父さんにはお会いしたことなかったけど頑張っておられるんだ」と少し感慨に耽る。いろいろ見ているうちに、地域の障害者の方を率先して雇用されているのが判った。

文章を読んでいくと「・・・私たちは障害のある方々を敬意を込めて貴世満さんと呼んでいます。高貴な心が世の中に満ちるように・・・」

キヨミツ?これは僕の名前じゃなかろかね?漢字は違うけど・・・・

 

鳥肌が立ちました。偶然とはいえね。こんなことがあるんだ。


備前清光という刀。関係ないですけど。

屋形船

 あっという間に時間がたつ。確か先週は…

 木曜日は船に乗ってきた。天満橋の八軒屋浜からでる屋形船、飲食カラオケ付き。当院夏の納涼会です。

 スタッフ30名ばかり時間どおり午後7時前に集合、院長は本屋さんをうろうろしていて遅刻、ブーイングを浴びる。しかも目的の本もゲットできず。トホホ。

 で屋形船だが、結論から言うとなんで船に乗ったか全然わからん。浮かぶカラオケルームである。貸切でウキウキムード満載だったのだが、食事にラップをかけて机の上に置いてあって、「皆さん、ラップをお取りください」というムードも何もあったものではない。もうちょっと情緒あってもいいんじゃないの?と年配組は思うのであった。

 熱いせいか窓も閉め切りでクーラー全開、外の景色も暗いせいであまり分からず、船に乗るという特別な感じは大変希薄である。揺れてるのだけがそれらしい。

 とは言いながらも目的は懇親、カラオケは異常に盛り上がり、えー、もう終わりー!という感じで2時間が終わった。楽しかった。幹事のI君、お疲れ様でした。船着き場の天満橋の川沿いはなかなか趣がある。夏の夜風に吹かれての散歩は快い。また来よう。

 2次会に繰り出す若手とは別に当院ITを受け持ってくれているコンピューターマニアック、(最近髭の生えた)スタイリッシュ・イッシーを会社までお送りする。オープンは男二人が一番気を使わなくて楽しい。案外涼しい。夏は思いのほか早く終わるかも知れぬ。こりゃまずい、急がなくちゃ。

船の中はこういう感じである。

 

ホリディ

 夜半の雨は上がり朝からいい天気である。久しぶりにゴルフに行く約束をしたので、昨晩の大雨にテルテル坊主を5つ作って窓に吊し、ベッドにひざまずいてお祈りをしたのが功を奏したと思われる。こういうことには熱心である。

 めっちゃ暑かった。スコアはなんとか100は切りましたという最近のアベレージであるが、平日に出来るという幸福に感謝する。日曜日にウン万円もだしてするゴルフはスポーツという域を外れているように思う。リーズナブルな値段でセルフで(できればスルーで)ちゃっちゃかちゃっちゃかやるのがスポーツとしてのゴルフではないでしょうか。

 ご年配の方が結構されているのには感心する。僕も90歳までゴルフを続けるのを義務として課している(僕の外来には80歳代のゴルファーが2人おられる)。しかもヨタヨタするのではなく、しっかりとした体格で。これは不可能なことではないと確信している。エイジシュート(年齢と同じスコアで回ること)を達成したいが、これは年齢というよりも下手なので無理かもしれんなぁ・・・・。

 帰ってから愛犬の散歩に行く。夕方で日も若干翳っているがまだ暑い。オレンジ色の半パンに子豚の絵がついたブルーのTシャツ、ビーサンである。日にも焼けているしボート屋の不良親父である。小心者で律儀でも不良オヤジに見える。You can’t judge the book by the cover.

 帰宅途中の小学生3人と一緒になる。大阪弁の活発な美少女、少し暗めだけどしっかりしてそうな女の子、単なるうるさいガキの男の子。10分ほど一緒に歩く。「なんでこの犬吠えへんの?」「毛、抜けるの?うちも犬飼ってるんだけど抜けて大変とお母さんがいつも言ってる」・・・楽しい。最近一番話が合うのは小学生の様な気がする。

 しかし愛犬は散歩するのがいやそうである。雨も嫌いだし暑いのはもっといや。ハードな条件が嫌いなのは飼い主も一緒だけど、最近歩くキモはケツと背中だ!というのが分かったので無理やり付き合っていただく。

 こいつも老けたなぁ・・・。この前NHKスペシャルで長寿遺伝子をオンにするのはレスベラトロールだというのをやってましたが(しかしイージーな作りであった)、こいつには試してみてもいいかもしれんと思ったりもする。

早く帰ろうぜ!

 

真昼の怪談

 いやー、暑い!朝出勤のとき、7時チョイ過ぎでも30℃を超えてます。こんな時はこれ、これ。

 夏だ!ビキニだ!怪談だ!

 

 ランチタイムのいつものお喋りに、女性スタッフから。

 「昔某大学病院に入院したんです。3階に入院していたんですがちょっと用事があって上の階に行こうと、夜11時頃看護師さんの了解を得て一人でエレベーターに乗った。ボタンを押したんですが上にいかないで下の階に行くんです。誰もいないのにゆっくり1階ずつとまって地下3階までいった。そしてまた上がって元の3階で止まった。すると看護師さんが待っていて「どこ行ってたの!」と言うんです。剣幕に驚いていたら、すぐの気がしたのに実は45分もたっていたんです。事情を説明したら看護師さんは黙ってしまった。後でわかったんですが、病院の建て替えの前は地下3階に霊安室があったそうです。各階で止まって誰かが乗り込んで下まで行ったのかなぁ…」

 彼女はちょくちょくそれらしき経験をする人である。霊感のありそうな…。するともう一人の女性が、

 「六甲とか行くとよく出ますよね。車に乗り込んできたりとか」・・・ 「乗り込む!?経験あるの?」 「よくありますよー。夜景なんか見に行くと、とてもあり得ない場所に人影が立っていたりとか。車にも何気なく乗ってきたりとか」

 絶句!である。まだ大物がいた。彼女は日常的によく見るそうで、特に異常とは思わなくなってきた、そんなもんかぁ、という感じだそうである。友人たちには引っ越しの時とかよく頼まれるそうである。「誰かいない?」かみてほしいと言って。

 すると先ほどの彼女が、「結構いますよね。家とかむしろいないほうが少ないんじゃない?」「そう。でも悪さするのとか、そうじゃないのもいるしね」 「悪さって君になんかするわけ?」 「何もしないけど、見ていると頭が痛くなったり息が詰まったりするときがあって、これは悪い。」

 もう人生観が根本から引っくり返るような話である。一緒に話を聞いていた「もうすぐ結婚改めバタフライK君(高校時代にバタフライで県大会まで行ったことが判明したため改名)」も驚愕の表情である。実は僕は最近、工藤美代子氏の「もしもノンフィクション作家がお化けに出会ったら」という本を読んだところで、ふーん、こういう人もいるんだと今までの「ない!ない!」という姿勢が微妙にに変化していたところだったので余計に驚いたのであった。

 こういうことってあるんでしょうかね…。案外何人か集まると大概そういった能力を持った人がいるようで、結構一般的な気もする。僕は「幽霊の正体見たり枯れ尾花」、基本的にありえないと思うのですが、この世界は自分の頭の中で理解しているだけでみんな同じように見えているという保証はない。絶対値ではなく、世界の存在は各々で違う可能性もある。気配を感じる能力差なんてのもあるだろうし。科学的に解明出来たら面白いなぁと思うのでした。でも僕には出ないでね。

 

やっと夏?

 土曜日から急に夏になった。日差しが強く、空あくまでも青く、風景が全体に露出オーバー気味に明るくなり、空気に梅雨の名残、日本の夏の湿気が混じる。  夏だー・・・これを待っていたんだよ。

 誰が何と言おうと夏が好きである。昨年の殺人的な暑さであろうと好ましい、個人的には。いつごろかいな、そう意識しだしたのは。

 アーウィン・ショウ氏の「夏服を着た女たち」という短編を好きになった頃かいな・・・と思う。10代の終わりか。短編集のタイトルでもあるこの話はいいぞー。僕はこういった話を読んで、「おっしゃれー」という自分なりの感覚が出来上がっていったのだ。ヘミングウェイ氏と同時代の作家なんだけど今読んでも古くないと思う、多分(ほとんどの本が絶版だ)。

 村上春樹氏の「夏の最後の芝生」、池上夏樹氏の「マリコ・マリキータ」、片岡義男氏の「波乗りの島」「僕のオートバイ、彼女の島」なんてところも夏を特別な季節に感じさせてくれる役割をになったような気がする。

 そう、夏は特別なのである。片岡義男氏の名言「夏は単なる季節ではない。それは心の状態なのだ」を思い出すまでもなく、心は仕事以外のフレッシュな世界へもどんどん飛び出していくのである、いや、いきたい。強くそう思ってやっとちょうどくらいだよ。ぼやぼやしている時間はないねー。なに?まだ梅雨はあけてない?いいの、個人的にあけるから。

 

 

 

ランチトーク

 昼飯はいかなる状態で皆さんお食べになっているのかな?

 僕はクリニックの上にあるスタッフルームで、鍼灸院のサイコK嬢、治験を手伝ってくれているベビーフェイスY君、もうすぐ妻帯者K君と一緒に食べることが多い。デイサービスで利用者さんに出しているものと同じものを食べる。

 この30分から1時間の食事時間は僕にとって一番の気分転換である。この時間は出来るだけ仕事の話はしない、出来るだけバカ話をするというのがみんなの暗黙の共通認識となっているようで、いろんな人も話に入って、出来のいいバラエティのようでかなり笑える。

 しばらく前はY君の女性認識がいかに甘いか(男には媚態を見せ女性には態度を変えるというかわいこちゃんタイプが見破れないのである。またそうと分かっても好きなんだそうだ。その通り!愚か者である)というのがホットな話題だった。今日の話題は・・・

 「男の人は禿げって嫌がりますけどそんなことないですよ」 「うそー、俺、絶対いやだ」 「なんで?ブルース・ウィルスとかかっこいいじゃない」 「それはブルース・ウィルスがかっこいいので禿げがカッコいいわけではない。外人は似合うんだ」 「日本人でも竹中直人なんかいいなぁ」 「うん、十分許せる」 「なんで?わからん」 

 「男の禿げと女性の太ったってのは、自分が思ってるほど他人が気にしてないという点では双璧だな」 「うそー!」 「そうだよ、男って案外ちょっと太ってても可愛いと思うよな」 「思う、思う。ガリガリより絶対いい」 「うそだ」 「絶対嘘!ありえない!」 「・・・なんでそうなるかなー。わかんねぇ」

 ということで、男の禿、女性の肥満、というかぽっちゃりは、異性はむしろ好ましいと思っていることも多いのだが、「信じれん、自分だと嫌だ」という共通点が明らかとなった。で、僕は男の観点から考察するのだが、女性が禿げに寛大なのは、それが不可抗力のもの、個人の努力ではどうしようもないから寛大なのではないかな。

 対して肥満は個人の努力でどうにもなる。肥満ということは美的観点から許せないというのもあるが、努力してない、怠慢のシンボルだから許せないのではなかろうか? 女性はそういう点、シビアな気がするのですが誤解でしょうか。

 男は大体寛大である。特に外観に関しては。禿げもこれは女性に人気がないという思い込みがあるからイヤなだけで、そうでもないというのが認識されるとコロッと変わる可能性が高いな。

 僕も禿げても気にならなくなってきた。つるつるに剃ってサングラスをかけたい。こわいぞー。大体変に気にしないで堂々としていれば何でもカッコいいのだ。外観より中身よ、それそれ。とすると内面の怠慢が外に出る肥満はやっぱりシビアに対処した方がいいな、とこれまた趣旨替えをする。主体性がないのであった。

二つ合わせちゃえ!

みんなのデューク

 次の患者さんを診ようとして前回の電子カルテを眺めると「17年飼っていた愛犬が死んで落ち込んでいる」と書いてあった。そうだった。Nさんは1ヶ月前それで元気がなかったのである。

 「少し元気になりました?」 「あきませんわー、今でも思い出して」と、もう少し涙ぐんでいる。火葬しお骨を仏壇に飾り、気持ちの上では納得していても他の犬が元気に走っているのを見ると、心がじんわりと重くなってくる。

 「しかたないよなー、17年もいると」 「そうですわ。でもね、私いつか生まれ変わってくると信じてるんです。」 「・・・?」 「いつかよう似た顔で、かわいい男の子が近くに来たら、ああ、あの子や、と判る気がするんです。それを楽しみにしようと思って」

 江國香織氏の作品に「デューク」という有名な話がある。亡くなった犬が少年に生まれ変わり、飼い主の少女に会いにくるという話である。こう書くとふーんって程度の感じだけど、これはねー、泣くよ。すごく素敵である。 短編集の中の話だが、これだけ独立して素敵な挿絵をつけて1冊の本として出版されたくらいである。 犬を飼った人なら誰でも泣く。 Nさんは多分「デューク」のことは知らないと思う。でも犬好きの人なら同じようなことを考えるのだと思った。

 僕の愛犬も11歳だ。中型犬だし後何10年も生きる訳ではない。前ほど走らなくなってきたし。

 亡くなったりしたら絶対いやだなと思っているが、生まれ変わるとしたら少し心が休まる。ある時街で憂い顔の美少女を見つける。横顔が誰かに似ている。思い出せない。向こうから嬉しそうに寄ってくる。何故?知り合いらしいが記憶がない。失礼のないように、思い出そうとして少し一緒に歩く。誰かがアイスクリームを食べているのを見ると急に彼女はやたら反応する。近寄っていこうとする。おいおい、ちょっとみっともない。犬顔の人とすれ違うと寄っていこうとしたり、極端に避けたり。道端の花を見ると匂いを嗅いでいたかと思うと急にかぶりつく。 「えー・・・・、あっ!」

 ということになると人生は楽しい。 そして僕も何かに生まれ変わる。あなたの飼っている猫がゴルフ番組の時だけテレビに興味を示したり、70年代のロックミュージックがラジオから流れた時だけ楽しそうな顔をしたら・・・あやしい。

 

「感覚」

 土曜の午後から散髪に行った。もう30年通っている。オーナーのY君はなかなかのビジネスマンであり、小さなお店1軒から始め、2回ほど同じエリア内で引っ越しをして、今はよく流行っている2軒の店をもっている。もう別に働かなくてもいいご身分のようだが(僕より7つほど下)、先頭に立ってやっている。

 もう長い付き合いであり、行くとバカ話をしてリラックスするのであるが、その中からいろんなヒントをもらうことも多い。

 

 「あまり、こうぐっと感動するようなことって無くなってきましたね」 「かんどー?」 「ええ、前すごくゴルフに打ち込んでいたんですけど、今はちょっとなー。買い物なんかでもなんか義務的で。楽しんでないですね」 「おお意外だ!どうした? でも子供の時に周りが真っ暗になっても遊びを止められなかったような、そんなメチャクチャ楽しいことって無いよな」 「ねっ」 「慣れかなー。年を取って経験が増えるとほとんどがやったことになり、繰り返しは記憶に残らず心に残らん」

 「そのせいかな。最近ゴルフに行くのでも前もって予定立てないで、その日にああ、いい天気だから行こうかなと思って、ゴルフ場と行く相手と、うまくあったら行くト。以前とはちょっと違う。それだと何となく楽しい」 「なるほど。しかし考えてみると休みの日でもこれするとかあれとか、予定ばっかりだな」 「そうですよ。決まった予定ばかり立てて、それ考えると面白くないですね」

 「できたら気ままにやりたくないですか。今日はいい天気だト。この仕事が終わったらあそこ行って気に入ってるあれ食べて、ちょっと気になる映画なんか見て、遅くなったらちょっといいホテルにでも泊まるかなト。一人ですよ、もちろん」 「いいなぁー、それ」 「ねっ、でもね、些細なことなんですよ、こんなの。いっつも仕事してんだから、やってもいいんじゃないですかねぇ」

 

 その通り。しかし気ままにできない50男の性(さが)である・・・かな? その時目の前の窓からは青空と強めの風にそよぐ若木が映っていた。このまま散髪が終わったら車をオープンにして和歌山かどっかの海に行こうかな。そのまま寿司でも食って・・・などと想像していると急に心が軽くなったのである。重かったというのも気が付いていなかった。

 そして実は僕は本質的にそういう人間であったというのを思い出したのである。忘れていた。ランボーの「感覚」という大好きだった詩が突然よみがえったのである。急に焦点があったのである。 これからどうなるかは知らない。

 

 

夏の青い夕暮れに ぼくは小道をゆこう
麦の穂にちくちく刺され 細草を踏みしだきに
夢みながら 足にそのひんやりとした感触を覚えるだろう
吹く風が無帽の頭を浸すにまかせるだろう

 

話しはしない なにも考えはしない
けれどかぎりない愛が心のうちに湧きあがるだろう
そして遠くへ 遥か遠くへゆこう ボヘミアンさながら 
自然のなかを―― 女と連れ立つときのように心たのしく

(宇佐美斉訳、ちくま書房)