カテゴリー別アーカイブ: 日記

グッド・スメル!

 嗅覚は最も原始的な感覚であり、匂いの記憶は強烈に過去を喚起する、ということになっている。僕の場合、その匂いは甘ったるい香水である。最近ではめったに出会わないが、時々ふと誰かとすれ違った時にあまり高級でない、すごい甘い香りがする時があり、その時一瞬気を失ったように過去に戻る。

 それは心斎橋の百貨店、大丸である。今でもあるか知らないが昔大丸の1階は化粧品売り場であり、中2階があっていろいろな小物が陳列してあった。大理石の非常にクラッシックな階段。照明もオレンジに淡く僕は小さな子供の時、母親の買い物を待ちながら弟と階段を走り回っていたのである。おそらくその化粧品売り場の匂いではないかと思う。その匂いは幸福であった子供の時に帰らせる。ああ、何でこんなふうになっちゃんだろう・・・

 アメリカではこの種の香りによく会う。おばあさんでも大量に香水を使っているが、そんな人から香るなにか古風な、50年代という匂い。

 今日夜診が終わって本部に帰ってきたとき、アロマセラピーが終わったところで廊下にいい匂いが立ち込めていて、匂いの記憶を思い出した。後何10年かしたら、アロマオイルの匂いをかいだ時、僕の今の時代を限りなく懐かしく思うのかもしれない。

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perfume breeze

捨てる男

 あなたには躾があるか?第2弾。しかし躾というのはすごい字ですねー。身が美しいですもんね。身が引き締まります。

 「捨てられない人」というタイトルで斉藤薫女史は書いています。ストレスがたまるのはなぜか?それは捨てられないからではないか。物も心も、捨てさせすればストレスは消える・・・身の回りの余計なものを捨てよう。欲も願望も、叶わなかったものは一度捨てる。ちょっと濁ったコップの水を捨てるように・・・また新鮮な水をなみなみと注げるのだから。

 そうか・・・はたっと膝を打つワタシ。僕は物持ちのいい男なんですねー。このまえ何とはなしに掛かっていたジャケットをみていいじゃんと思いながら着たのですが、それがなんと!20年近く前のものだったりするのです。だいたい捨てない。それが不幸のもとだったのか・・・

 うちのスタッフでそこらへんの思い切りが実にいい人がいます。どんどん捨てる。気前がいい。女ですが男前です。やはり吹っ切れた、すっきりした面構えです。これでなくっちゃね。

 最近そう思ってどんどん捨てるように心がけています。そうするとだなー、今まで、いるかもと思って捨てないでいたものが役に立ったためしなどほとんどないのですが、捨てだしてから「しもたっ!」というのが続出しています。いるのを捨ててしまうらしい。よくよく捨てるのが下手らしい、この男は。捨てるのも才能ですね。

 でもやっぱり捨てたほうがいいことが起こりそうな気がする、根拠ないけど。もうすこし捨てる勉強を続けます。僕の周りにいるといいものが落ちてるよ、きっと。

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もっといいものも捨てる

ちょいボラおやじ

 ちょいボラおやじとは何か?ちょいワルおやじは古い!今はちょいボラおやじがキテイル!・・・らしい。ボラってボランティアのことです。笑えるなぁ。ほんまか?という感じですが、確かにボランティアに興味を持っている元気な団塊の世代おやじは多そうです。

 実は僕はちょいボラおやじです。

 同門会という、大学で働いていたある医局の在籍者の会で、いろいろ事情があって機能不全に陥っていた同門会を復活させようと有志が集まって幹事会が結成されたのですが、最年長ということだけで幹事長をやらされています。実際の運営は僕より遥かにしっかりしてきちんとした幹事数名がやってくれているおかげで何とか動いているのですが、2年近くなってちょっとみんな疲れている。今日も集まって新年会の運営とか同門会誌の編集とかいろいろ。みんな忙しい開業医で、月に最低1回とはいえ何かと手間がかかるのです。K先生なんかは診療所に事務局のファックスを置いている献身振りで涙が出るのですが(てっていボラおやじ)、みんなこれが、ぜーんーぶボランティア。

 年末はノロウイルスでみんなやたら忙しく、やってられっかい!で、同門会誌や名簿の発刊が遅れていたのですが、医局からはまだでしょうかというクレームがヒソヒソと来たり、ボランティアという甘えは実は許されないのです。ボランティアでも何でも、一度仕事として請け負うと、やはりそれは結果を期待されてしまう。以前デイケアの見学に某診療所に行ったとき、スタッフの数として読みにくいのでボランティアは採用していませんと仰ったところがあったのですが、やはりそれは見識です。

 とか何とか言ってても仕方ござーせん。きっと僕の中の何かが変わるだろうと思ってやることにします。僕くらいの年代になると、金じゃないのよーという感じが分かって来ます。そうじゃない部分のほうは実は大切だと。で、続けるか、ちょいボラおやじ。しかしやっぱりちょいワルおやじのほうが・・・。

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こいつはかっこいいです。

ブック・ショップは海

 僕はワーカホリックである。違うなー、微妙に。アル中?こりゃ、ぜんぜんだ。一時お昼からよくビールを飲んでいたりしたが最近は飲まないほうが熟睡できる。友人からもらったオリジナルのウイスキーは飲んでるけどね。ミュージック・アディクトは?かなり近いが、アイポッドで街を歩いたり走ったりという感覚はまるでないのでやはり違う。やはり活字中毒である。これが正解。別に誰も訊いてないけど。

 本屋さんは昔から最も心休まる場所である。いい本屋さんが見つかると、とても気分がいい。グッド。昔、西宮北口に敷地の3分の1くらいを喫茶店のようにしている本屋さんが在って、買った本をそこで読めていい感じだった。本のセレクションも抜群にセンスがよかった。最近久しぶりに行ったらなんと!全部喫茶店になっていた。びっくり!経営者はいっしょである。本屋さんは難しいんだ。とても残念である。本屋さんは置いている本にかなり個性があって、自分の好みにあった本屋さんというのは非常に貴重なのであるが。

 よく本屋さんをぶらぶらしていると、日によって本のあたりの調子がかなり違うというのがわかる。釣りみたいなもんである。こいつは面白そう、という本が次から次へという、思わず涎が出そうな大漁の日もあれば、読みたかった本を見てもあまりピンと来ず、そのまま何を見ても「もひとつねー」となって寂しく帰る日もある。大体どんどん来る時は体調もよくバイオリズムも上昇中という感じの日が多い。自分のコンディションが本屋さんに行くとわかるのである。

 最近僕の車は、鍵についたドア開閉リモコンの電池が切れかけているのか時々反応しない。ところがなんというか、気合いが入っている時はカチッと反応するのである。明らかに違っているのである。これも体調のバロメーターとなっている。・・・すいません、しょうむないこと言いました。

 いずれにしろ僕にとって本屋さんは釣り師にとっての渓流、海であり、悦楽をもたらす場所、リフレッシュの空間である。仲のいい本屋さんも少し縮小したりしてなかなか大変である。最近実はネットで買うことも多かったのだが、やはり実物を手に取り、パラパラとめくってその気配を感じなければ失敗することが多い。バーチャルな釣り場はやはりだめだ。ちゃんと本屋さんに行こう。もしいいところ知ってたら教えてね。

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おお、快楽の場所よ

忙しい天国

 新年2日目。なんのかんのやることはあるが原則的に暇である。日頃やらなくてはならないこと、考えなくてはならないことに追い回されているので天国のようなものであるが、天国は毎日いると退屈かもしれん。

 ご高齢の方を診察していて思うのだが、退屈されているというのがネガティブファクターだと感じる。敬愛するディレッタント、故植草甚一氏が「遊ぶほうが仕事より難しい。なぜなら自分で頭を使わないと楽しく遊べないから」と述べているが至言である。仕事が休みくらいで退屈といっているようでは先が思いやられるぜ!遊ぶことに頭を使おう。

 同じ遊びでも徹底的にしないとつまらない。何事も700時間やればそれなりに格好がつくという説がある。だとすれば1日30分毎日練習したとすると1400日、約4年。新しいことでも今からはじめれば十分である。結構やりたいことがあるのでワクワクしてきた。

 僕は仕事も遊びと等価のところがあるのだが(ゆえに、いわゆる遊びにあまり時間を取れないというところがある)、たくさんの可能性を設けたほうが楽しい。人生を遊び倒せ!と今日は心に刻んだ。それが本当の天国。

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やるよー

青空

 年末進行である。ここ数日超忙しく、昼飯は診察の合間の数分間に電子カルテ見ながらおにぎり3個という悲しい寂しいパターンである。「ご盛業で…」と皮肉を言われそうだが経営者としてはいろいろ問題のある懸案大山積みで、頭が痛い年の暮れである。昨日は大雨の中、往診のため軽自動車を運転しながら石川啄木の歌を思い出し、じっと手を見てぶつけそうになった。あぶねぇ、あぶねぇ。

 こんなことを言っている場合じゃない。今年も暮れる。尊敬する内田樹先生がこんなことを言っている。コミュニケーションを妨げるものは、こだわり、プライド、被害者意識であると。生きていくということはコミュニケーションを続けていくということである。だから僕はその妨げと反対の人間を目指そう。つまり、こだわらず、いじけず、そして臆さず、いつもニコニコ。イタリア語で言うところの「セノーラ」な人間である。青空のように夏のそよ風のように、明るく屈託がなく、フットワークのいいライトウェイトスポーツカー。一部では僕の能天気なところを指してかなり達成されていると見る向きもあるようであるが、甘い甘い。もっとです。ほとんどバカに見えるくらいが理想。

 明日からちょっと断れない理由で冬山です。寒いでしょう、そうなんです、遭難です。でも気分転換に行ってきます。まだ行くまでに片付けなければならない仕事が山積みですが。ブログ書いとる場合じゃない。でもいいや。それでは皆さん、一足お先に。ハブ・ア・ハッピー・ホリディズ。アディオス!

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smile please !

12月

 全く冬らしくない暖かい日が続いているが、一応12月は忘年会とかいろいろあった。しかし明日でほほ全部終了である。急に入るかもしれんがね。

 最近いわゆる医療関係以外の人と飲んだり食べに行ったりする機会が増えた。大学に勤めていたときは仕事仲間以外とはとっても少なかったのだが。だけど当然違う業種以外の人と話すほうが得るものが多い。もう少し早くそうするべきだったなぁと少し思う。

 旅に出て、全く自分の肩書きとか関係のない旅館や料理屋の人とかと話したとき、どのように遇されるかで実力がわかるという話がある。生身の自分だけで勝負したとき、僕はどれだけ価値のある人間だろうか。面白みのある男だろうか。

 僕は仕事がこの世で最も面白いと思っている。そしてそれを恥じる気もない。そうでない人を非難する気もないけど。でも仕事を離れたとき、何も残っていないようでは相当問題があるぞ。そんな自分とは思ってはいないが。でも・・・

 「本業以外に金を取れるぐらいの趣味を物にしたまえ」と、昔教えていただいたことがある。来年の課題です。

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月を眺めて考えるなぁ

人生はロコ・ロード

 家の近くにその地域在住者のみがよく使う道、いわゆるロコ・ロードがあります。そこを車で走るとかなり時間が短縮されるのですが、狭い(半分くらいすれ違い不可能)、曲がりくねっている(設置されている鏡をうまく使わないと向こうから来る車がわかりにくい)、人がよく歩いている(危険)、4方向から車が来る踏切がある(優先は自己判断)などという、脅威のハードルいっぱいで、そこをチョイスするときは深呼吸をして、今日はうまく行きますようにとお守りを握り締めながら走ります。ドキドキ。

 そこを走る条件は①即座に行くか待つか、決めることが出来る状況判断能力を持つ、②自我を通さず、譲るべきところは潔く譲る、③譲ってもらったら相手に敬意を表して挨拶できる、といったところです。社会生活そのものですね。

 ロコの車が多く、重大事態に至ることは割と少ないのですが(踏み切りでの掛け合いなんか、このあたりはメチャクチャ民度が高いぜ!と感動します)、時々全くわかっていない何を考えているのか外見も含め全く理解不能のおばちゃんが、わざと眼球を正面に固定したまま急に突っ込んできて大惨事にいたります。僕も夜の雨の中、長距離をバックして溝に落ちそうになり、避けたためにゴミ箱に突っ込んでかすり傷をつけるというえらい目にあいました。だけどおばちゃんは絶対に謝らないですね。

 何でそんなとこを走るんだ?というご指摘ももっともですが、運試しもさることながら人と人との振舞い方の勉強になります。鍛えとるわけです。そして毎回おんなじ道じゃつまらないじゃん。ハイリスク、ハイリターン。人生もこれで行くと今に泣くことになる気がしますが。まっ、いいか。

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大違いだよ・・・

幸福の香り

 結構よく読むブログに「さなめも」がある。佐藤尚之氏(さとなお)がレストランの採点をした爆発的にヒットしたブログだが、現在はグルメ方面はやや休止中で日記が中心になっている。

 今日書かれていた内容は心に引っかかった。少し引用してみよう。
 
 美輪明宏が「幸せとは陽炎のように儚いもの。手にした瞬間に飛び去るもの」みたいなことを書いていたが、その通りかもしれない。彼は続けて「なのに世の中の人は『幸せになります』『幸せになりたい』と、一度手に入れたら未来永劫変わらない固形物でもあるかのように言い、求める」みたいなことを言う。つまり結婚式とかで「幸せになってね」とか「なります」とか言うのは違ってるよ、ってことだ。幸せとは瞬間の感覚のことを呼ぶのだから。そしてそれが続くとだんだん麻痺して当たり前になり、また不満を持ち始めるのが人間なのだから。

 だから、たぶん、幸せとは「なる」ものではなくて「気づく」ものなんだろう。

 幸せに気づく感性(それはたぶん感謝する心)をもっともっと磨きたい。

 幸福とは匂いのようなものですぐ消え去ってしまう。囲い込みは出来ない。なくなってからあれは幸福だったんだ、と気づく。常に香りを興すように意識をもっていかないと永遠にわからない。ボンヤリ生きていては幸福は来ない。

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物より・・・

向かい傷の仙人

 相変わらずシンプルな生活を続けている。仕事が終われば食事をし、入浴し、後は若干の本と睡眠である。アルコールはなく悦楽も少なそうである。仙人である。

 入浴時に読む本を選んで読みながら歩いているとおでこに激痛が走った。半開きのトイレのドアに思い切りぶつかったのである。もう少し下だったら眼鏡は木っ端微塵であった。「あぶねー」とつぶやきながら再び読んでいるとページにぽつんと赤いものが・・・

 「うん?」出血しているのである。鏡を見ると左の眉に1センチほど垂直に傷がついている。向かい傷である。ただでさえ人相が悪いのにますます悪くなってしまった。じっと見ていると頭まで痛くなって眩暈がしてきた。慣れない勉強をしていたために罰があたったのであろうか。

 翌日も眩暈が少し残った。夏の再現か、と思うと少しうんざりしたが結局1日ほどでほとんど消失した。意識すると結構目立つ傷なのだが、気のつく人は少ない。スタッフで3人ほど、患者さんも3人ほど。いかに人の顔なんかちゃんと見ていないかわかる。人間は見たいものしか見ていないのである。もちろん僕もそうだ。

 このまま傷も消えていくだろう。怪我をしたこともほとんどの人は全然気がつかないままに過ぎていく。なんだか何があってもあんまり驚かなくなってくるな。物に動じなくなってくるというか、気持ちの起伏が少なくなってくるというか。これはあまり良くないことに違いない。仙人になるのには、まだ100年早い。男の子の向かい傷はめでたいと昔の人は言った。これは目を覚ませというお叱りか。

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脂ぎった仙人がいいな