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800

 「800」を再読する。

 後書きを書いている江國香織氏のことばが一番ストレートに読んだ気分を表現している。「はじめて読んだときのことは忘れられない。ほんとうに興奮し、熱がでたみたいな気持ちになった」これは本当にそうなのよ。僕もおんなじ気分になった。再読してよけいにその気分が強い。

 800は800メートル走のこと。高校1年生の二人の対照的なランナーを中心に彼らを取り巻く女性たちや社会が関わってくるのだが、ともかく登場人物魅力あり過ぎ。これはよくあるスポーツ根性物でも感動篇でもない。全然違う。裕福でクールな広瀬君と、ストリートワイズに溢れるパワフルな中沢君にからむ女性たち(高校1年生がこんなことでいいのでしょうかと思わず羨ましく、いや、立派と感心しました)とスポーツの官能の話なのですが、なんというか奇跡的なくらい魅力的だと思います。展開も完璧。著者である川島誠氏の本をその後何冊か読んだのですが、「800」がいかに突出しているか確認することになりました、残念だけど。

 また江國氏の後書きから。

 「この小説がこうまで完璧なのは・・・」「どう考えても傑作だと思った」「どうして?最初に読んだとき、強くそう思った。どうしてこんな小説が書けるの?」「詩的で官能的で奇跡的で機能的」・・・さすが作家だなぁ。その通りです。

 僕はこの小説を読んで、「なっ、ええやろ、かっこよすぎるやろ!」と言いあいたい人が欲しくてこれを書きました。映画の「ディアー・ドクター」以来のことです。時々本を好きでよかったなぁと思える本が現れます。こいつはパワフルにやってくれました。僕の永久欠番です。そしてできるなら「800・・・5年後」を読みたい。「スラムダンク」だってその後のみんなの1日をすごく素敵な形で見せてくれました(知ってる?)。期待してます!川島誠先生!

中身はずーーといいぞ。 

15年目

 ああ、時間がどんどん過ぎていく!

 先週はなんやかんやで気がつくと翌日になっており、とてもブログを書く時間がありませんでした。昨日の日曜日は朝の早よから産業医(会社などの嘱託医にはこの資格が必要)の講習会があり、1日座っていました。後輩のalfesta君も参加していたので久し振りに喋れてよかったですが。

 この日は阪神大震災から15年目でした。その時僕は香枦園というところに住んでいたのですが、すごい揺れがあって飛び起きたとき、5階の窓から見えた夜明けの芦屋にあがる数箇所の火の手と、目の前の道路に信じられないくらい大きな亀裂が入っていたこと、自転車で勤務先の兵庫医大病院まで向かっていたとき、道路に大きな穴が開いていて自動車が落ちていたこと、病院でトイレが流れないため、病院の前にあった鯉が泳いでいた人口池からみんなでバケツリレーをして水を13階までくみ上げたことなど鮮明に覚えています。本当に戦争(経験したことないけど)のようでした。暖房が入らないためみんなジーンズにセーターでその上から白衣を着て働いていました。1年半くらいは物欲が全く無かった。

 あの地震で人生が変わった人は多いです。僕の心の中にも地震の影響は確実にあります。あまり説明したくないのですが、地震がなかったら開業していたかどうかわからないなぁ。身近な人が亡くなった方の心の傷は簡単には癒えないだろうと思います。心からお悔やみを。

 こういった不幸はこれからも、いつでも起こりえます。その時どうするか。どのような態度をとるべきか。実は考えている。

N.Y.Timesの見出しもLike A Warだった。

癒着!?

 全然話題になってないのですが、13日の夕刊に「新型インフル: WHOに癒着疑惑、製薬会社と流行扇動」の見出しが。

 世界保健機構(WHO)のあるグループが製薬会社と癒着していると、欧州会議保健衛生委員会委員長が「虚偽のパンデミック」との動議を提起。詳しいことは記事から判らないのですが、各国がワクチンを大量に調達したが、その理由のひとつはWHOが「2回接種が必要」とのステートメントを出したことであり、現在多くの国で大量にあまっていることからいろいろ批判が起こっているらしい。ワクチンを製造したメーカーとの関係が怪しい?

 実は今日本でも大量に余る可能性が指摘されています。しかも輸入ものが全くはけないと考えられ、購入費1200億円(勿論税金であります)は無駄に終わるかも。ワクチンうつ前に流行がピークになったとかいろいろな因子がありますが、接種回数に関しては確かに二転三転しており、WHOが何らかの意図を持って回数を最初に出したとしたらこれはかなり問題。

 世の中でかなり大きな問題になっていることの裏には、こういったお金儲けの悪巧みが隠れていること(普天間基地なんかもね)はざらにある。悲しいことである。

 昔僕のボスであった某教授はあまり人を信用しない人で、何かといえばその証拠を出せと誰彼なく言うので、僕は人を信じられない人はいやだなーとちょっと嫌いだったのですが、実はそれこそ科学者の正しい態度であったのだと今更ながらに思う。

 個人的な関係においては、人は無条件に信ずべきだと思います。しかし社会的な出来事に対する権力からの指示は、まず眉唾がファースト・アクションだな。そうしよう。悲しいことだが。

疑惑の紋章?

サーファー化

 おお、今日もレイドバックした日だったぜ。嬉しい。まぁ単に何もせずゴロゴロしていただけなのですが。

 レイドバックといえば、ブログにコメントを寄せて下さる夏海さんはハワイが好きで、ラッセンの「マウイ・マジック」をお持ちです。これがいい絵なんだなぁ。心がクリアーになってくる。マウイマジックという言葉も、マウイ島に滞在すると運気がよくなってくるという意味のようです。

 サーフィン・ミュージックというジャンルがあり(ハワイアンじゃないよ)、今日も「Thicker than water」というサーフィン・ムービーのサントラ(音楽監督はジャック・ジョンソンだ!)を聴いていたのですが、なんともいえずいい気分になってくる。この絵も神秘的ですが、サーフィン自体も単なるスポーツという枠を超えてライフスタイルとか人生の神秘に直結してくるかのようなパワーを持っているようです。

 伝説的なサーファーのジェリー・ロペスは禅とかヨガに大変造詣が深いし、サーファーには俗世間を超えた哲学者がかなり多い。人生はお金じゃない、ちいせぇちいせぇ、もっと大事なことがあるよということが、自然と戯れているとわいてくるのでしょう。アンチ・勝間です(彼女も立派だと思います)。世の中自体がこちら方面に少しずつ動いている感じがしますが、ぼくもこの方が気持ちがしっくりします。

 実際に波には乗れないでも心はサーファーでいこう。生活をサーファー化しよう。これです。で、どうすんねん?サーファーのイメージを思い起こせばよろしい。できるだけ自然の中に出て行く、タバコはすわない、深酒をしない、自転車に乗る、早寝早起き、スマイルがベースで怒らない、冗談が基本、とかさ。明日からこれでいこうぜー。

マウイマジック!

みんなの幸福

 もう連休も終わりです。

 貧乏性だなぁ、僕は明日も休みなのですが、3連休となると「こんなことしてていいんやろか?」という、3ヶ月間くらい休暇をとっているかのようなゴージャス感に不安になったりして。

 で、何をやったというとこらまた何もしていません。今日は1日中CDを聴きながら本を読んで終わりました。でも満足感はあるなぁ。旅行に行けば幸福で、家でボンヤリしていたら不幸かというと、それは全然そんなことないわけです。普段あまり聴かなかったCDばかり聴いていたのですが、再発見多し。ええじゃないの、と思わず口元が弛む(中島ノブユキ「パッサカイユ」とか菊池成孔の「南米のエリザベステーラー」とか)。昔の雑誌も楽しく有益であった。幸福である。

 幸福は世間の基準にとらわれてはいけない、幸福は究極の自己満足なのである、と森博嗣氏も述べているがその通り。極めて個人的なものなのです。

 言い換えれば自分がどんなに変だと思っても、ある人に取ってはすごく楽しいことかもしれない。赤いパンツを集めるのが好きだという人も(実際に知っている)、遊ぶより政治活動をしている方が燃えるという人も(実際に知っている)、いいじゃないか、幸せならば。というわけで明日も自己満足の時間を作ろう。

幸福な1日が終わりワクワクする明日を待とう

 

プレゼント

 まだ仕事始めから3日目だけど(というか、だからか)結構お疲れモードになってきた。これではいかん。抗加齢医学会の中心人物である慶応の眼科学教授である坪田先生は、年始のメールで彼個人の「2010年の10大ニュース」を予測して送ってこられた。これはつまり今年の目標ということである。僕もモチベーションをあげるため僕の10大ニュースを製作しようとするも5つで行き詰る。うーん。

 家に帰ると小包が届いていた。もう10年くらい会っていない、賀状交換をしているだけの僕の後輩S君からだ。僕は20代後半から30代前半まで(多分今までの人生で世俗的な意味で一番面白かった時期)いうのも恥ずかしいがウインド・サーフィンに人生のかなりを捧げていた。ごく僅かの時間でもあれば香枦園の海の潮風に吹かれて細胞の活性化を図っていたわけだが、S君は僕をそのウインド・サーフィンの世界に導いてくれた恩人なのである。

 彼とはいろんなとこに行ったなぁ。勿論聖地であるマウイ島にも一緒に何回か行って、今とはまったく別のライフスタイルがあるということも教えてもらった。彼は湘南ボーイであり、海とともにする生活が自然な人だったのである。

 小包には2枚のCDと手紙が入っていた。彼の中学、高校の同級生である益田ひろしという人のソロギターアルバム。「彼の曲にはヒーリング効果がありますので、ちょっとお疲れの時に聴いてみてください」とあった。こっちのコンディションを察知しているかのような絶妙のタイミングのプレゼント。

 彼が鎌倉・材木座でウエット・スーツを着てウインド・サーフィンをしている写真が添えてある。「相変わらず海で遊んでいます」とある。もう50前だったっけ。ソロギターは素朴で直球という感じの音楽で青春の香りが漂う。元気を出せってことだね。

 

O君の鍼灸院

 お昼休みにO君の鍼灸院に行った。http://www.osumi4649.com/

 彼は2年ほど前まで当院でいっしょに仕事をしていたのだが、独立の志に燃え自分の鍼灸院を立ち上げたのである。僕は彼の施術により鍼灸の効果を身をもって知った。そして今でもクリニックに鍼灸院を併設している。クリニックの原型を作った恩人ともいえる。久しぶりに会った彼はなんだか若返って見えた。

 「O君、若返ったんじゃない?」 「髪が長くなったせいじゃないですか(彼は以前は短髪だった。今はぼっちゃんのような髪型である)。2か月散髪に行ってないんです。2か月前に会った人から、別人か、と言われました」…相変わらずである。

 鍼灸院は彼の温厚な性格を反映して暖かみのある山小屋のようで、ベッドも落ち着けるように個室に置いてある。しかも2室だけ。彼が会計も何もかも全部一人でしているのである。レモングラスのいい香りが漂い、一緒に行った当院鍼灸士のK嬢がバリ島みたいですねといったように、東洋的だけど島のような風通しのいい波動がある。僕も通ってみたい雰囲気だった。

 温厚だが彼は大学時代、柔道と空手のクラブに入り、僕の診療所でも格闘技クラブを作っていた。このことからも彼の内に燃えたぎるものがあるというのがわかるであろう。数回の活動の後サンドバックを買うかどうか討議していたのだが、そのままクラブ自体が立ち消えになってしまったのは残念であった。

 彼とまたの再会を約束してクリニックに戻ったのだが、とてもいい気分だった。彼にはスタイルがあり、それを貫いている。流されていない。生きるのに大事なことは自分のスタイルを作るということなのだと僕は思う。勉強になりました。

満足顔で鍼灸院を出るうちのスタッフのM君

心は武闘派のO君

 

オン・アンド・オン

 今日は仕事始めです。 

 オフは終わりオンです。このオン、オフですが、「アエラ」に放送作家の鈴木おさむ氏がいいことを書いていました。

 「この業界で仕事のできる人は飲みにいっても面白い。仕事オフという意識は無く、常にその場その場で努力して面白くするよう考えるからだ。我が家もオフにする場だと考えない。仕事とは違う脳を使って、同居人とテンションを上げる場だと考える。仕事と家庭はオンとオフじゃない。オンとオンにできる人こそ両方ともうまくいっている気がする」

 オフは無く常にオン。すげぇ・・・。

 でもこうありたい気がする。大体何もしないでボーとしていても休息にはならない。別のことに集中してこそ仕事の疲れが取れる。睡眠時間さえ確保していりゃ、ずーとオンの方がいいわけだ。オン・アンド・オンといえばスティーブン・ビショップの名曲ですが、やり続ける、継続という意味です。オンをやり続ける。オンをオン・アンド・オン!

 これです。今年はこれに決まりね。

オン・アンド・オンに突入!

 

明珠在掌

 明日から仕事である。

 院長の着ぐるみを着た小学5年生は悲しみに打ちひしがれそうになりながらレセプトをチェックしたりしてそろそろと日常業務のリハビリに入る。健気だなぁ。

  休みの間何をしたかというと何もしていない。買い物なんかも全くしていない。新年からセールをやっていて去年は衝動買いで眼鏡を買った。今年は文庫本1冊。以前買った本、CDとかを整理していると、おお、なかなか!と思うものが結構出てきて新しく買う必要性がなくなってしまった。服もしかり。

 最近物欲はあまり無く、精神的、肉体的な快楽をいかに得るか、頭を使わなくてはいけないようなことにのみ興味が向いている。物質は今あるもので十分。さらば、マテリアル・ワールド。

 いい言葉がある。教えようか。「明珠在掌」。宝物は実はあなたの手のひらの中にある。青い鳥の話も一緒。幸福はあなたのすぐ傍にある。すでにあなたは今のあなたのままでいい、何の不足があろうか、キョロキョロせず周りを気にせず、いまのままの自分で、やりたいことに集中したまえ。

 悟ったか、小学5年生・・・なわけないが、今の自分の手持ちの駒を深く検討しなおした方が新しいものを求めるよりいい気がします。

 そう感じるときはそのように。そういう時期なのだ。今の世の中の風潮はエコにしてもなんにしても全部経済上作り出されたもののように感じるのでよけいに。新しいものはいりません。

 ウラウラと落ちる冬の夕陽

 

年賀状

 僕は年賀状を書くのが遅い。全く自慢にならないけど。

  実はほとんど今年はもう止めようと思っていたのである。昨年スタッフからスタッフ間の賀状のやり取りはもう止めにしようと思うのですが、という声があり、それはそれで結構、書きたい人だけ出せばいいよ(これは当たり前の事だ。わざわざ言ってきたのは同僚から賀状が来なくても気にしなくてもいいよというエクスキューズであり、無駄を省くという意味でもある)と答えたのですが、僕はスタッフには全部出した。スタッフには年賀の挨拶をしておきたいという気持ちからです。

  しかるにそういう気持ちで賀状を書く相手がどれくらいいるか?結構会う機会の多い友人だとわざわざ書く必要も無い気がする。気持ちが分ってるから。ご年配の方、仕事上の付き合いの方には礼儀から。ほとんど会わない方には生存確認に近い意味で。

 然るに僕はせっかく書くのだから深いことが書けないとしても一言添えるのは最低限のエチケットだと思う。印刷だけの葉書が届いてもこれは何の意味もないな。出す方もわかってるだろう、これは単なる挨拶であなたが気になる訳ではない、慣習上していますと。年々印刷の範囲が大きく書き添えるスペースが無くなっている賀状が増えている気もする。

 本当に年賀の挨拶をしたい人だけに出すようにしたら今の3分の1くらいになるんじゃないかなぁ。そのつもりで書くようにすると、今の義務感からじゃなく、いい気持ちで書き始められる気がする。

  今年からそうしよう。年賀状でなくスタイルを変えて別の形で。慣習だけでやっていることは止めよう。礼儀知らずと思われてもいいや、まぁ実際そうだし。