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雪掻き仕事

 昨日、在籍していた大学病院の医局新年会があった。これは医局と同門会(在籍していた人の同窓会のようなもの)の合同でおこなわれるもので、僕は形だけではあるが同門会幹事長をしているのでスタッフとして関わることになる。

 

で、別にどうってことない新年会なのであるが、これからどのような形でやっていくかとか、双方どのような形で関わっていくかとか、いろいろ懸案事項があるのである。面倒なこってです。

 

同門会は全くのボランティアであり新年会に関わらず結構やることがある。1月か2月に1度、幹事が集まって相談していたがみんな忙しく時間が取れなくなり、この前やっとメーリングリストを開設して連絡することにしたので少し楽になった。これでも息絶え絶えで、今新規スタッフを募集中である。

 

尊敬する内田樹先生の言葉に「雪掻きを誰がする?」というものがある。雪掻きは必ず必要である。しかし自分の家の前以外の他のところもするのは大変で誰もやりたがらない。でも誰かがしないと大変なことになる。そんな時「あっ、いいっすよ、では私が」と言って引き受ける人がどういうわけか必ずいて、そういう少数者により社会がまわっている、とかいった内容だったと思う。

 

僕はそんないい人ではないし、成り行き上やっているのだし、ほとんど何もやらないから他の人に迷惑ばかりかけているので大きなことは言えないのだが、それでも医局に対するある種の愛情からやっている同門会とか、区の医師会の理事とか、いくつか雪掻き仕事に関わってみると、同じように参加している人々に対する信頼感から人間はそう悪いものではないなというほの暖かい気持ちが出てくるのである。それだけでもいいか。

 

おお、雲が流れる、人生のように。

シンクロニシティ

今日朝、車の中で突然患者さんのKさんのことを思い出した。末期癌で在宅診療をおこなっていたのだが欝がひどくなり、奥さんの精神的負担も限界となって10日ほど前にホスピスに入っていただいたのである。もともと建築士をされていた方で、お元気な頃はきっと活発な楽しい方だっただろうと思っていた。気持ちの上で何かつながるものがあったのである。

 

 ホスピスに入られたことでなんとなく安心してすっかり忘れていた。お元気かな?クリニックに着いたら奥さんの携帯に電話しよう。

 

 そう考えてクリニックに着き、エレベーターに乗る。その時携帯に着信があり、一瞬にしてKさんと確信した。案の定、その名前が。やはり奥さんから今朝亡くなったという取り乱したお電話だった。

 

 Kさんを思いだしたのが750分頃。お亡くなりになったのが7時半。20分のタイムラグかぁ、と思う。

 

 こういうのをシンクロニシティという。心理学者のユングが言い出した言葉で「意味のある偶然」。別に珍しいことではない。噂をすれば影といって、話していた対象である本人が突然現れるというのはよくある話だ。世界は見えない何かでつながっているという仮設で、氷山にたとえられる。見えているのはほんの一部。水面下ではつながっている・・・

 

 僕は霊的な話を聞くと偶然でしょ、とあっさり切り捨ててしまう情緒のない人間であるが、実は全く否定しているわけではない。第6感というか、野生の動物が災害の前に異常行動に出るように、野生に近い頃の人間が持っていた感覚の一部かなと思ったりもする。むしろそう考える方が確率から考えると科学的かも。

 

 世界はつながっており、この世界で起こることはすべて意味があるのだと思うと世の中に対して優しくフレンドリィになれる。僕は世界の一部であり世界は僕の一部なのだ。色即是空、空即是色である。そう思わない?

 

世界は見えているのと違うかもしれんね。

昨日、今日と暖かい。風がなく陽だまりの中にいると春のようである。

 

昨日はちょっとあって(何が?)皇大神宮(クリニックの氏神様である)に朝お参りに行く。境内に入っていくと身体に不自由な男性が足を引きずりながらお参りをされているのに出会う。朝8時前、彼は毎朝お参りしているのであろうか。

 

僕の中に宗教心は1ミクロンも存在しない。

自分自身への戒めのためである。

でもこういうことをするとなんとなく心が落ち着く、というのは否定できないなぁ。

つまり必要ということかと思う。

 

年をとったのでしょうかねぇ。

いや成長したのだ(と思いたい)。

 

今日散歩の時拾ったバラのような松ぽっくり。関係ないけど。

それは無意味だ。

今週、朝礼で話したこと。

 

僕が外来で患者さんとお話していると、多くの方が悩みがあるとお話される。病気のかなりの部分はメンタルが作用している。実際、精神神経免疫学という学問が確立され、心と身体の密接な関係が証明されつつある。「病は気から」はある意味では真実なのである。

 

では悩む必要があるのだろうか?

福田和也氏の文章で感銘を受けたものがある。彼は言う。

「他人が自分の願望を満たしてくれないといって、自分では行動を起こさないことが悩みの本質だと思う。だからそれは下らないというか、無意味だ。他人に期待しないで、自分から行動を起こす人は悩まない。」

 

嘆いている時間があったら打開するプランを考えたまえ、そして実行するのだ。

以上。

 

 

勿論、これは僕自身に言っているのである。

この文章を読んだのは数年前だが、自分が少し変わったように思う。

僕にとって大事な言葉なのである。

 

 

村上龍氏の本のタイトルに「自殺よりはSEX」というのがあった。

そういうことだ。

人間ドッグ(ク、じゃないよ)

犬が人間の呼気から癌を診断するという話。

 

カリフォルニア州・San Anselmoに有る「Pine Street Foundation」のMichael McCullochと、ポーランドの科学アカデミーに所属する「遺伝学と動物育種研究所」のTadeuszJezierskiによれば、癌の匂いがすれば横たわるように訓練を受けた5匹の犬は、肺癌55人、乳癌31人の患者さんと83人の健康な対照群のチューブの中に吹き込まれた息のサンプルに対し、88%97%という検出感度と特異度で癌を検出することが可能であった。

 

英国でもAmersham病院の皮膚病学者であるCarolynWillisらが、犬が膀胱癌を識別できる能力を持つことを発表した。テストされたのは6種類の犬で、 7ヶ月間人間の尿の膀胱癌特有の臭いを検知する訓練を受け、その後に行われた実験結果では正答率は40%

 

日本でも、同様の試みが成されている。福祉犬育成協会が取り組んでいて、訓練を受けたがん探知犬マリーン(ラフラドルレトリバー)の探知率は、ほぼ100%。マリーンは麻薬犬として活躍してきたエリート犬で、特に優秀だそうである。

 

馬鹿げた話と思うかもしれないが、こういうのはどうなるかわからないぞ。動物の能力を人間が変換応用してきた例は今まで沢山ある。蝙蝠の探知能力の研究からソナーが開発されたりとかね。

 

もうすぐ診察に行くと犬が座っているようになる。

ドクターのことを略してドクと言ったりするが、「あそこのドクはダメだがドッグはいいよ」とか。「ドクは不細工だがドッグはかわいい」とか。

「神の鼻」といわれるカリスマ犬とか。

だいたい犬はDOGで、神はGODで、逆から読めばおんなじだ。

人間ドックも人間ドッグに変わったりして。

 

癌に限らず他の病気にも応用が可能かもしれない。

犬と一緒に診察室に座る日。

うーん、待ち遠しいです。

 

こいつはどうよ?クッションみたいだけど。

「人間以下」って?

眼鏡を買った。もちろん衝動買いである。ていうかー、前から黒縁の奴が欲しいなーと思っていたのだが行く時間がなかった。お正月休みに近くに新しく出来た眼鏡屋さんがあり、セールだったので通りがかりにフラッと入ってしまったのだ。

 

適当にいろいろかけていたのだが、かなりしっくりする奴があった。「Less than human?」聞いたことあるような無さそうなメーカーである。パンフレットも置いてあるが製品の紹介はなくアートっぽい写真ばかり。イメージではウエストコーストのメイカーか?ロスアンジェルスかな?

 

1回はやっぱりやめとこ、と思って店を出たが、やっぱり考え直して戻る。とーぜん店員さんが寄ってくる。話しているとかなり個性的な眼鏡であることがわかった。なにしろツルが畳めないのである。眼鏡の形に金属が切り出してあるだけだ。ツルが少し曲がるようになってあり、それで若干小さくしてケースに収容する。ケースも分厚い透明ビニールで巻くだけ。基本的にはたためんな。何でこんな訳のわからんことを!?

 

丈夫であるというメリットはある。しかし微調整はきかない。でもね、かける奴を選ぶというか、メーカーの名前(人間以下だもんね)からして面白い奴がやっているに違いない。で、即決した。

 

とても気に入っている。後でネットで調べたら、なんと日本のメーカーだった。

http://www.lessthanhuman.co.jp/index.html

 

でもねー、うるさいぞ、こいつらは。3人のメンバーが中心なのだが好きなことしか、面白いことしかしませんという意志がバンバン伝わってきます。HPもなかなかのものですが、いろんなとことコラボしてるのね。同じように面白がる人が多いということなのでしょう。経営的にはどうなのかなと思ったりもしますが、デザインも含めとても気に入ってます。次も多分ここから選びそうな気がする。

 

医療にはいろいろな制約があり、やりたいようにやる!ことはかなり難しい。それをどうこう言うつもりはありませんが、こんな風に強く個性を打ち出したいな、と思います。まずはこの眼鏡をかけてっと。

 

     日焼けした僕。           蝶番がない。曲がってるだけ。

鍋の夜

 昨日はうちの新年会がありました。京橋のもつ鍋屋です。僕はもつ鍋は食べたことなかったのですが結構うまくて気に入りました。不景気にもかかわらず店は満杯で、壁には主として芸人さんの来店記念色紙がゴマンと貼ってあります。京橋に吉本もあるもんな。勢いがあっていいです。寒かったのですが食べ過ぎてホカホカでした。

 

 僕が勤務医だった頃は、忘年会、新年会というとまず座敷で、主として鍋というのが本流でした。だからそういうもんだと思っていたのですが、ここ10年ほど立食だとかテーブルで洋食とかそういうのも多くなってきて、ああいうのはなくなったきたんかいと思っていました。

 

 でもやはりこういうのが王道では、と思います。スペースの関係で個室がとれず、他のお客さんも居られたのであまり騒ぐのははばかられましたが、もしそうであったなら走り回り喋り捲りぐちゃぐちゃというのが望ましい。

 

 今年はこういった会をできるだけ沢山したいなというのが感想。仕事で車を使うので本当に飲まなくなったのですが、こういう日はリミッターをはずして顰蹙を買うのが望ましいな。次は花見の頃でしょうか。

 

 

vivicomを持っていったのであきれられた。

記念に幹事を含む1枚とその夜の月を。 

おつかれ!

 

縮小ですがなにか?

抗加齢医学でここしばらくのトピックはカロリー・リストリクションである。カロリー制限が動物実験でも人間でも寿命を延ばすことが明らかになり、そのメカニズムとしてある種の遺伝子が発現することが証明されたのである。

 

植物は厳しい生活環境で育てられることで逆に甘みの強い果実を産み出すことが知られているが、それと同様に生存の厳しい状況におかれると、動物はなんとか生殖可能な状況まで生き延びようと寿命延長モードに切り替えるらしい。もっとも栄養失調の状況までいくと逆効果で、カロリーのみ減らし栄養素は保たれているというのが望ましい。

 

なんでも過剰だよなーと思う。音楽でも、LPを僅かしか買えなかった学生時代は何度も聴きかえして本当に好きになった。最近CDレンタルがあって結構すぐ聴きたいものが手にはいると、密度は明らかに薄くなった気がする。なんでもそうだな。僅かなものでやりくりした方が濃厚な関係が手に入る。

 

これからのキーワードは「ダウン・サイジング」と一部では言われている。拡大・発展ではなく、縮小・濃密に。

 

同じように、仕事で毎日沢山の人に会っていると、それ以外の時は出来るだけ人に会わないでいるほうがいいんじゃないかと思ったり・・・する。

 

街の灯は懐かしく思うのかな。

ビビカム ハズ カム!

  Vivicomがやってきた。中国製のトイ・カメラ、デジカメである。チープシックな感じがいいなぁ。モードなんかをいろいろ変えることで写真のイメージがかなり変わるのが面白い。とりあえずカジュアルな感じ。普通のデジカメがポロシャツならこいつは着古したTシャツの感覚で、バシバシ使えるぞ。単4の電池2本で動くのも気に入っているが、あるく君によれば電池の消耗は激しくサンヨーのエネループを買ったほうがいいとのこと。サンキュー、グッドアドバイス!

 

 で、今日は朝から車から撮ったり診察室で使ったり、いろいろ試してみた。まだ全然使いこなしていないなぁ、不満。軽い魚眼レンズも付属で買った。面白い。

 

  僕の診察室を撮った2枚の写真。同じ景色だが印象が違う。もっと色々なパターンが可能。 

 

 日常の出来事って案外記録がない。でもこういうのが後々見なおすと楽しいのだと思う。何かを訴える写真が撮れそうな気になる。飽きないで使い続けるぞ。

 

 仕事以外の時間は何かしら美しいものに触れていたい、渇望しているのだ。写真を撮ることに心をくだくこと。こいつは悪くないね。

 

 おまけ。診察室の僕の視線から見える外来バックヤード。

 

 

 

アール・ド・ヴィーヴル

今日は仕事始めですた。休みもいいけど仕事もね、というところでメチャクチャ忙しかったですが快調です。

 

Art de vivre アール・ド・ヴィーヴルというフランス語があります。英語にするとArt of life でいいのかな。優雅に生活を楽しむ方法といった感じでしょうか。いずれ死んでしまう人生で、ひょっとすると完全に分かりあうことの出来ない他人といかにしてともに幸せに生きていくことが出来るか。それはおいしい食事や気の利いた楽しい会話など、そんな日常的なものの中に人が幸福を共有する時間があり方法そのものがあるのでは。そこに熟達すべき・・・といったところであって、この感覚はフランス人のセンスの骨格となっているという説を読みました(まっ、そんなところからもフランス人は究極ラブ・アフェアーのためだけに生きているということが判るね。どうもこれはホントらしいですが)。

 

フランス人には及ばなくても、楽しく生活しようと思ったらボーとしてるのではなくそういったセンスを磨かなくてはならん。

 

で、今日あなたを幸せにしてくれた3つの出来事を挙げよ。

 

僕の例。

    今日某外資系の製薬会社の方が数名取材に訪れた。全国のドクターに配信しているメールマガジンに、参考にしたいクリニック探訪という新しい企画があり、その第1回にうちが選ばれたのである。まあ、それだけでもめでたいが、それより嬉しかったのは、その(あまりお世辞を言うタイプには見えない)スタッフの一人が日の差し込む診察室に入ってきて「うわー、いいですね。風邪を引いたらここに来たいという気になります」と言ってくれたこと。

    わりとうるさ型の患者さんが、うちの某スタッフを見て「いやー、この前来た時いてへんかったから、あの感じのいい人どないしたんやろ、と主人と心配してたのよ。居てくれてよかったー」とおっしゃったこと。

    外来が混んで予定をこなすと飯も食えずに午後診へ突入が明らかになったので、仕事中に食べようとおにぎりを買ってきてもらうように頼んだ。するとお手製のおにぎりが3つときれいなおかずが届いたこと。感謝。

 

3つってね、案外しんどいよ。でも考えてみよう。そしてお返しだな、必要なのは。それがアール・ド・ヴィーヴルのプロになる確かな方法です。

 

日の出にむかって出勤だぜぃ!